0 10.5.食卓と贖い みんなに公開

そして槍による刺突は遮られる。他でもない、変身した花森健人本人の手によって。
その右手からは血が滴り、今も十字架の槍が目の前に迫ってきている。一方で健人の目は血走っていた。目覚めたばかりにも拘わらず、極限状態の異様な拍動と高揚感が心身に満ちている。
そのまま槍を掴んだまま身を起こし、立ち上がった。尚も槍はその切っ先を震わせるも、持ち主である悪魔の腕力ではそれ以上先に進まず、また悪魔が虚を突かんと左手で殴りかかっても、健人は退かずに堪え続けた。
「貴様…どういうわけだ、これは…!」
「大体、ワケわかんねえんだよ…俺の友達に手を出しやがって!!」
その怒りと猛りを左足に乗せ、健人は悪魔を大きく蹴り飛ばした。
「今のが貴様の回答か?こちらにはまだ戦力が残っている」
蹴り飛ばされた悪魔が健人を強く睨んで言った。
「あの小僧を屠るなど造作もない。秘宝を渡せ!貴様自身の意志で!」
激昂する悪魔の言葉に、健人は顔をしかめる。この期に及んでハッタリではないと、ネーゲルがその意識共有を以て健人にそう直感させた。
先の三分間に対しても、悪魔は時間を稼いでいた節があった。そんな奴がここで稚拙な手段に出るとは思えない。だが同時にネーゲルは健人にその先を示した。
"健人、左手出してこのまま歩け。合図したら全力で力をーーカルナを出せ"
"何する気だ?"
"連れてってやる。初樹の下へ"
沈黙を終えてその通りに歩き出した。そして健人は左手を差し出すように前に出す。悪魔が手を左耳に相当する部位に運んだ。一瞬の沈黙。そして次の瞬間ネーゲルが叫んだ。
"今じゃ!!"
「殺れ!!」
ブレスレットを通じて自身の内の力を解き放つ。直後にエヴルアの怒号を聞いたが、その次には健人の目の前に囚われ、傷き、意識のない初樹がいた。そこに迫るは影魔達の攻撃。即座にブレスレットで障壁を張る。そして初樹の身体の拘束を解いた時、健人の内にネーゲルの声が今一度響いた。
"もう一回じゃ!カルナを!!"
そうして再度転移する瞬間、輝くブレスレットの光に照らされた初樹の頬には、涙の跡が見えた。

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してやられた。怒りに身を震わせるも、しかしまだ追えるやも知れぬ。故にエヴルアが駆け出そうとした瞬間、ガラスの砕かれた5階の窓から声が響いた。
「事と彼の力を私物化せんとした裏切り。また我々の存在の暴露。全く狂的に過ぎるな、エヴルア」
「焚きつけておいてよく言う。俺を殺りに来たなら後にしろ」
老いた男の声に、エヴルアが舌打ち交じりに言葉を返す。それと同時に闇色の靄が4つ、窓の砕けた夜空から5階に入り込んできた。やがて4つの靄は人の形を象り、バベル、ゾルドー、アゼリア、ゼンの姿となってエヴルアを囲むように現れる。
「ところで彼のような極端を言う性質は、この星の人間の言葉で何と言ったかな?ゾルドー」
「ヒステリーだ」
「ああそうだ、そうだった。ヒステリー…実に君のためのような言葉だな、エヴルア」
直後、エヴルアは最上階の影魔4体と包帯姿ーー深化前の影魔を自身の周りに喚び出し、バベルらにこう告げた。
「口上はいい。そこを退け、言葉遊びをしている暇はない!」
「いや何、こうした言葉遊びは嗤えるものでね。実に無意味でーー」
「邪魔だと言っている!!」
エヴルアは最上階の影魔4体を喚び出すと共に、そのまま窓際のバベルへと斬りかかる。
「訂正しよう。激情に任せただけの刃こそ無意味だ」
擬態を解いたバベルは、金色の竜を思わせる姿となり、槍を防ぐと低く唸るように言った。他の4人も4体の影魔と対峙する。だがエヴルアはそれに目もくれず、その膂力を以て自分ごとバベルを窓から押し出し、地上へと落下していった。
「馬鹿なエヴ、役者としては三流以下ね」
それだけ言ったアゼリアの呟きは、誰に聞かれることなく、戦闘の音に搔き消えた。

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気づいたときには初樹を抱え、健人は中央塔の外に降り立っていた。暗闇を照らす街頭が辺りを照す中、一台の軽自動車がこちらに向かってくるのが見える。
「蓉子さん…」
やがて健人たちの前に停まった車には、上坂蓉子が乗っていた。彼女は慌てて車のドアを開け、健人たちに駆け寄った。
「何があったの!?」
彼女の言葉を変身した自分のボロボロの姿を指したものだと送れて気づく。
「…えっと、何て言ったらいいか」
「とにかく乗って、話はそれからーー」
そう促された蓉子な厚意に、初樹を車の後部座席に乗せた、その時。
「行かせると思うか?」
追ってきた悪魔が黒炎を放つ。すぐに健人がそれを剣で弾くも、直後には十字槍が振り下ろされる。衝撃的光景に蓉子が叫び声を上げた。
「蓉子さん、ハッサン連れて早く行って!」
「そんな…」
「早く!」
悪魔と健人が槍と剣を打ち合う。蓉子は苦悶の表情を浮かべながらも車に乗り込んだ。そしてアクセルを全力で踏み込むと、初樹と共に中央塔を後にした。
「死ね」
「こっちの台詞だ」
悪魔の怒気と共に振るわれる槍に応酬するが、膂力はこちらが劣り、消耗は敵の方が軽微。勝ち目は薄い。しかし——。
「念仏でもほざけや」
健人の足掻きはその左顔貌と口元を、甲虫を想起させる異形の面に変える。その深化に伴ってか、悪魔の槍の動きを三手先まで見通すことができた。正面への突きを弾き、右からの薙ぎを防ぎ、続けて体勢を崩さんとする突進を躱す。だがその先んじた対処を以て、力に勝る悪魔の攻撃を往なして尚、それ以上の攻め手にはどうしても欠けた。
「クソったれが…!」
「早く楽になれよ、イレギュラー!」
それでも尚、追随する健人の剣に苛立った悪魔が吠える。遂に力任せに槍が振り下ろされ、防戦しか無くなった。そこにネーゲルの声が健人の内に響く。
”まだじゃ!諦めんな、チャンスは必ず来る。その時に全力を放て!俺もその一瞬に——。”
だがその直後、振り上げれた槍によって遂に健人の剣が弾かれた。間髪入れずに悪魔は闇色に染めた手を健人に突き立てんとする。それでも、まだ、終われない。
その時、その刹那、健人の身体は一瞬だけ加速した。右足の回し蹴りが悪魔の身体を打ち、その身を弾き飛ばす。そして即座に左腕を翳してブレスレットを構え——。
”撃て!!”
全力のカルナを、悪魔目掛けて放つ。対する悪魔も巨大な闇の焔をすぐに撃ち返した。拮抗する力と力、だがそれ故に悪魔は気づけなかった。健人の全力と共に撃ち出された、小人姿のネーゲルの存在に。
「貴様ああぁぁ!!」
「あああぁぁぁ!!」
カルナの衝突した力場から跳躍したネーゲルは、その叫びと共に小さな自身の身体を魔弾とし、悪魔に突撃する。
「全く、こんなクソみたいな——」
そしてその特攻は悪魔の内にある核を確かに貫いた。

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午後21時26分。桧山初樹は朝憬市中央部の国道を走る上坂蓉子の車に揺られていた。また彼の心はある夢を見ていた。それは子供の頃に時折あった、家族で食卓を囲った記憶。そこには彼の世界の充足があった。
料理に凝っていた母が作る肉じゃがの香り、仕事帰りの父が一缶だけ飲むの発泡酒を一足先に開ける音。学校帰りのゲームと宿題を一先ず終え、食卓の配膳をするのは自分と由紀の役割だった。
やがて始まるありふれつつも楽しかった食事と団欒。どういうわけか、笑いながら初樹の頬を涙が伝う。その様子に気づいた両親がこちらを見やり、傍らの由紀が優しく言った。
「どうしたの?お兄ちゃん」
その優しさは、彼を現実に引き戻す。気がつけば、しんと静まり返った食卓には初樹以外誰もいない。両親も由紀も何処かに消え、初樹は現在の彼の姿に変わっていた。
想起されるは妹の身に起きた悲劇、由紀と家族を支えるためにも疲れながならも働く父は帰宅時間が遅くなり、悲痛にやつれた母の作った食事は冷蔵庫で冷やされていた。そして、当時の初樹は樹妹を救う術も、苦しむ家族を繋ぎ止める術も持てなかった現実。そんな優しい家族の静まり、失われた食卓に彼は独り泣き声を上げた。
だが、いつまでもそうしているわけにもいかない。由紀が目覚めた時に、彼女に安心してもらうためにも。やがて顔を上げると、食卓は大学の学生ホールの机に変わっていて、初樹は花森健人が対面する椅子に座っていた。
健人と繰り返される他愛もない会話。やがて友人となった彼から感じられる影と、しかし尚も自分へ心を傾けられる彼の姿勢もまた、初樹が現実に留まる理由の一つとなっていた。それがーー健人の姿勢が、目の前で人としてのものでない、何か壊れたものに変わっていく。健人自身その変化を見やりながらも、どこか見てみぬ振りをしているように見えた。
そんな姿が、初樹を机から立ち上がらせる。謝らなきゃ、助けなきゃ、守らなきゃ、彼を引き込んだのは俺だ。いや、違う。それならばーー。
「花っち」
今は戦う、彼と共に。妹や家族、健人への知恵と勇気を、もっと身に付けて。
「俺もう謝ったり、逃げたりしない。事件からも、花っちからも」
それを、ちゃんと伝えなきゃ。目を覚まし、夜の朝憬市を行き交う人々の光を見つめ、桧山初樹は彼の現在への覚悟を決めた。
「由紀の、真実からも」

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「…終わった、のか?」
午後21時29分、朝憬市中央塔前。朦朧とする意識の中、倒れた悪魔を見て花森健人が言った。
「どうにか、そうらしいな…」
隣を浮遊する小人姿のネーゲルがそう返し、その場に静寂が戻る。しかしその直後、二人の見る暗がりの向こうから人影が見えた。
「揮石が砕かれたか」
やがて認められたその姿は、燕尾服を来た初老の男。すぐにネーゲルが息を呑み、構えたのを見て健人が顔を吊り上げる。
「…何者じゃ!?」
「君らとは以前一度会ったと思うが、まあ今はそれはいい。一先ずはこちらの精算だ」
初老は一度こちらを見るも、すぐに注意を悪魔ーー姿の戻った黒コートに移し、彼に語りかけた。
「エヴルア、お前にはこの咎を贖ってもらう。その身命を以てな」
そう言うと初老は黒コートに右手を向け、彼の身に暗い魔術の力を当てる。そして左手で暗い色を発する石を翳した。すると初老の周囲から暗闇が上がり、そこからボロ切れ姿の影魔が5体現れた。
「マジかよ、おい…」
「今はこちらに交戦の意思はない。君らは早く立ち去りなさい」
崩れ落ちそうな身体で構える健人を制し、初老は指で影魔に合図する。それを受けて影魔が、動かなくなったエヴルアの身を持ち上げると、そのまま虚空へと消えていった。
「いや何、最終的にはこれでいいだろう。君たち、頑張りたまえよ。今のところ我々の利害は一致している」
「どういう意味じゃ…!」
「いずれ分かるよ、ネーゲル。そして花森健人くん、君の求める存在はその道の先にいる。居るはずなんだ」
その言葉に、健人は驚愕した。なんでこいつは俺たちを知ってるのか。いや、それよりもーー。
「何であんたらがあの人を知ってる!?」
「ちょっとした推測だよ。そのことをより知りたくば、我々を追うといい。尤も、我々はこれから死んだことになるがね」
「待て!…っ!」
もう一人の友。その存在が明確に敵から示された。それに駆り立てられるも、身体がついていかない。よろける身体をネーゲルに支えられる中、今の健人には虚空に消える初老を見送ることしか出来なかった。
「君は今、どこにいる?」

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