0 流星と焔 No.?

朝憬市望海町に異形の怪物が出現した——。燎星心羽の下にその報せが届いたのは、2020年5月18日の午後3:20過ぎのことだった。
朝憬市立望海中学校の理科室で、化学Ⅰの授業を受けていた彼女の右手の細いブレスレットが淡く光る。それは心羽の従者からの合図。気は張っていたが、よもや授業中に合図が来るのは想定外だった。慌ててブレスレットをしていた右手首を、制服であるブレザーの袖に竦めるように隠す。
”もう、何で今なの…——”
話の聞き取りやすい化学の担当教師の飯山と、その授業内容を好ましく思っていた心羽は、不意に起こった急を要する事態に面食らった。しかし余程のことでない限り、従者が心羽の生活を害することはない。それ程の状況である以上、動かないわけにもいかない。心羽はおずおずと飯山に言った。
「あの、先生すみません…」
「燎星さん、どうしたの?」
おっとりとした女性である飯山の優しい声が続いて響く。その目は心羽の様子を窺っていた。
「ちょっと気分が良くなくって…」
ブレザーの袖と共に右手首を左手で抑え、辛うじて言葉を続けるも気まずさに最後は言い淀んでしまう。
「こっちゃん、大丈夫?」
「保健室、一緒に行こうか?」
自身の隣の席に座っていた親友の安純日菜と中川香穂の二人が、心羽の様子を窺いながら言った小声に、「ううん、大丈夫」と返す。しかし周囲の生徒の注目を浴びつつ、嘘をつかねばならぬ状況を心羽は恨めしく思って俯いた。飯山の目にはそれがどう映っただろうか。
「そう、時間も時間だけど…」
「早退でも、いいですか?」
こちらの意図をそれとなく汲んでくれたのか、渡りに船の思いで言った心羽の言葉に飯山は「しょうがない」と前置きして応じた。
「担任の羽原先生には…」
「私達が伝えとく。先生、いいですか?」
「わかった。じゃあ二人にそうしてもらって」
日菜と香穂の反応と、飯山にからの承諾に心羽は胸を撫で下ろす。
「ありがとう、ごめんね…先生、失礼します」
それと同時に申し訳なさと感謝を挨拶に交えて伝え、心羽は静かに理科室を抜け出した。

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そのまま自身の教室である2年A組に置いた荷物を取り、心羽は周囲に気を払いつつも校舎の屋上へと階段を駆け上がっていく。そうして屋上の出入り口の戸を開けると、従者である梟——エウィグは屋上の鉄柵に留まっていた。
「お嬢様、エクリプスです!」
「こんな時間からなの!?」
その嘴から、その鳴き声と共に紡がれる魔法の言葉——彼女の敵が、白昼堂々暴れているというその報せに、心羽は驚愕の声を上げる。梟はその身を竦ませるように翼を折り、魔法の言葉をまごつきながらも続けた。
「ええ、お嬢様の学校生活を害したくはありませんでしたが、状況が状況故にお呼びしないわけにもいかず…」
「それは大丈夫だけど、場所は?」
「望海町の東、住宅街付近です」
エウィグとの素早いやり取りの中、心羽はすぐに周囲の見渡して校舎外の人の気配を探る。そして誰もいないことと方角を確認すると、脚に力を込めた。同時に魔法の力——魔法力も込めた両脚に、そのエネルギーたる魔力の流れる赤い光が走る。その様にエウィグが驚愕の鳴き声を上げた。
「お嬢様!人に見られます!」
「この方が速いから!ほらエウィグ!」
「ああ、もう…」
その制止に構うことなく心羽は右手を掲げると、エウィグは困惑の声を上げるもその手に留まる。そして魔法の光と共に自身を梟の姿から、右手に宿るもう一つのブレスレットに変化させた。それを受けて心羽はそのまま跳躍して屋上の鉄柵を飛び越える。ミディアムボブの赤い髪が、高低差から来る風に舞い上がった。

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距離にして校舎から北、30メートル先の一般道に着地すると、そのまま前傾姿勢で疾走する心羽に、エウィグは窘めるように苦言を呈する。
「見られてたらどうする気ですか!?」
「大丈夫、ディスルプション(かく乱魔法)はもう掛けてるから!それよりも警察は?」
「まだ現場には着いておりません」
素早く道を駆ける心羽だが、街の人々は彼女がそこを駆ける時は決まって余所を向いていた。一般人を超えた速度で疾走する女子中学生の姿を、彼らが認めることは無い。その疾走の中、続けて心羽は状況を確認すべくブレスレットのエウィグに今一度問う。
「人は多い?」
「いえ、住民は退避しています。しかし警察に通報している人もまた居られました」
「良かった…じゃあチェンジ(変身魔法)とディスルプションで、あの人たちが来るまでに…」
「ええ、人の居ない場所へ…現場はもうすぐです、お嬢様!」
エウィグがそう告げた時には、既に街並みを少し外れた住宅街への坂道に差し掛かっていた。流石に息が上がりはするが、心羽は止まることなく自身の内に湧きあがる力を開放する。朝憬市を、そこに生きる人を守る意思——その思いを詠唱に込めて。
「チェンジ、フレイミングドレス!」
その詠唱に呼応するかのように、心羽の身体を赤い魔法の光が包んだ。瞬時にその光と神秘によって、より鮮やかな赤みを増した髪に、虹色の髪飾りが添えられる。そこにどんな堅牢な鎧や盾よりも彼女を守る焔のドレスを形成された。そして腰にマントを翻し、そのまま掛け声と共に跳躍した赤髪の魔女は、今まさに初老の男性を狙っている狂犬を思わせる異形——エクリプスに飛び掛かった。

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「早く逃げて!」
飛び掛かった勢いのまま男性にそう告げると共に、魔女は受け身を取ってすぐに起き上がった。得物である弓を構えて右手首に魔法陣を宿すと、魔法力で形成した炎の矢を撃ち出す。その攻撃を受け、唸り声を上げて自身に迫りくる狂犬に尚も矢を射ると、その威力に狂犬は怯んだ。そのタイミングで男性が退いたことを確認し、魔女は狂犬に強く問いかける。
「なんでこんなことを…!」
「…こんな場所、いらないんだよ」
「どうして…ここに暮らしている人も巻き込んで!」
狂犬の発した言葉に浮かび上がる疑義と義憤に魔女は猛る。しかし狂犬はそれを意にも介さず、より素早い動きで彼女の後ろに移動した。
「どうでもいいだろうが、そんなこと」
瞬間、その強靭な脚力から蹴りが離れる。魔女は辛うじて魔法で増幅された認識能力を以て、それを目の端で捉え反応した。しかし防御体勢と受け身は取れたが、その身体は2メートル半は弾き飛ばされる。そこからすぐに構えを立て直すと、遠方に視認できる開けた景色——そこに見える河原に僅かに一瞬意識を向けつつ、右目を細めて狂犬に言葉を返した。
「…勝手なことを」
「そういうお前は誰だ?部外者が」
「部外者じゃない。私はリュミエ。あなた達にこの世界の人たちまで好きにはさせない!」
吠える狂犬からの存在を問う台詞に、返す刀で自身のもう一つの名を明かした魔女——リュミエだったが、狂犬はその細くしなやかな体躯による疾駆で彼女の眼前に一瞬で迫り、その爪を奮う。
「知るか、そんなこと!…アレは俺の獲物だ」
「やらせない!」
リュミエは間髪入れず、その攻撃を携えた弓の弓柄に備わる刃で往なした。振り下ろされ、突き上げられる右爪、即座に左爪も振り上げられる。そして両爪で×字に切り払おうとする動き——その軌道、そのビジョンを強化した五感で捉えたリュミエは、これらを止め、弾き、躱し、鍔迫り合いに持ち込んだ。じりじりと迫る狂犬の血走った目、力を僅かにでも抜けば交差する爪の閃きが自身を斬り捌きかねない。そんな圧の中リュミエは耐える。互いに強く籠められる力を以て、爪と弓は強く打ち付けられていた。
「…っ、だったら!」
その時リュミエは自身から発する魔法力のギアを瞬間的に上げた。その波動で狂犬の身体を押しのけると、そのまま魔力の奔流を両腕に収束させ、それを弓矢に伝わせる。そうして弓矢が組み合わされると、より強く燃え盛る火炎の矢の切っ先が狂犬へと真っ直ぐに向けられた。同時に狂犬とリュミエとの間に魔法陣が展開され、リュミエは詠唱と共に火炎の矢を放った。
「イグニス・プロミネンスシュート!」
至近距離で放たれた火炎の矢は、魔方陣を通ってその威力と熱量を増して、狂犬に強大な一撃を与えてその身を焼く。苦悶の叫びがその場に響き渡った。

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