2 千想の魔法 2.執筆中… みんなに公開

目次大空広場カフェテラス路地裏レストラン空き地

大空

朝の森を、一陣の風が駆け抜けた。ざわり、と木々の葉が揺れ、心羽が見上げる。
青空を、大きな影が横切った。
「え……?」
翼だった。
人よりも遥かに大きな白い翼が、朝日を受けて眩しく輝いている。
それは心羽めがけて一直線に降下してくる。
「えっ!?」
激突する――そう思った瞬間。
ふわり、と大きく翼が広がった。
風の波が草花を揺らし、羽ばたきが静かに響く。
目の前へ降り立ったのは、一人の少年だった。
整った顔立ち。背中には、まだ畳みきれていない純白の翼。
「わあ……。」
心羽は思わず息を呑んだ。その姿はまるで、物語から飛び出してきたかのよう。
少年はこちらを見やり、微笑む。
「やあ。キミが森の迷い子さんだね」
鳥の囀りのような、穏やかで澄んだ声が響く。
「えーっと、あなたは…?」
「ボクはシエル。キミを迎えに来たんだ」
その少年は、背に携えた大きな翼を畳みながら和やかに続けた。
「イジェンドから話は聞いてるよ。でも、彼ったら肝心なことを聞いてなかったんだ。」
少し困ったように笑って肩をすくめる。
「キミの名前を教えてくれるかな。」
「私、燎星心羽。」
シエルは一瞬、不思議そうに目を輝かせた。
「心羽って呼んで。」
心羽は小さく胸に手を当てた。
「ココハ。」
シエルはその名前を反芻する。
「へぇ。開けた空みたいな響きだね。よろしく、心羽!」
心羽は思わず笑みをこぼした。
「うん!」
「さあ、行こうか。」
シエルは軽やかに手を差し出した。心羽が自然と手を取ったそのとき、シエルは目を細めてニッと笑った。
「大空を見せてあげる!」
次の瞬間。
ふわり。身体が持ち上がった。
「えっ!?」
いつのまにか、シエルの腕が心羽を抱えあげていた。
「ちょ、ちょっと!?」
「しっかり掴まって!」
心羽は慌ててシエルへしがみつく。
大きな翼が力強く羽ばたいた。
全身を風が包み込み、木々が一気に遠ざかる。
「わぁぁぁぁ!?」
風が髪を攫う。森が、小さく、小さくなっていく。
開けた視界に、いっぱいの青空が広がる。
「すごい…私いま、空を飛んでる…!」
「ふふっ、風を掴む感覚、気持ちいいでしょ。」
シエルが軽く旋回すると、森の向こうに大きな城と城下町が姿を表した。
「あれがユール城下町。ボクの自慢の街さ」
シエルは前傾姿勢になると、速度をあげて羽ばたいた。


広場

城下町が近付くにつれ、人々の姿が少しずつ大きく見えてくる。石造りの建物が立ち並び、赤茶色の屋根が朝日に照らされていた。広場には露店が並び、人々が行き交っている。
シエルは翼を大きく広げ、速度を落とした。
「そろそろ着くよ。」
ふわり、と石畳へ舞い降りる。翼が生む風に、人々の髪や服がふわりと揺れた。
「おかえり、シエル!」
誰かが手を振る。
「ただいま。」
シエルも軽く手を振り返した。ようやく地面へ足が着いた心羽は、まだ少し足元がおぼつかない。
「気持ちよかったぁ……!」
まだ身体が風を覚えている。胸が少しだけ浮いているような、不思議な感覚が残っていた。
「ふふっ。」
シエルが嬉しそうに笑う。
「キミみたいに、飛ぶことを楽しんでくれる人は珍しいよ。」
「だって、本当に飛んでたんだもん!」
心羽は興奮が冷めない様子で両手を広げる。
「夢みたいだった!」
その様子を見て、シエルもつられて笑った。
「気に入ってもらえてよかった。」
焼きたてのパンの香りが風に乗って流れてくる。心羽はようやく辺りを見回した。
石畳が続く広場。色とりどりの看板。並ぶ露店。人々の笑い声。
「焼きたてだよ!」
「今日は果物が安いよ!」
元気な呼び声が朝の街へ響いている。
「……すごい。」
森とはまるで違う。全く知らない景色が、目の前に広がっていた。
「おや、シエルじゃないか!」
パン屋の店主が店先から声を掛ける。
「今日は森まで?」
「うん。旅人さんを迎えにね。」
店主は心羽を見てがははと笑った。
「それなら、まずはうちのパンを食べていきな!」
「この人、誰にでも最初はこんな感じ。」
シエルが肩をすくめる。
「商売人だからな!」
店主も負けじと胸を張る。心羽は思わず笑った。
「じゃあ……ひとつください!」
「毎度!」
店主は焼きたてのパンを紙へ包み、心羽へ差し出した。
「お代はボクが出すよ。」
焼きたてのパンを受け取り、二人は歩き始めた。
「そうだ。」
服屋の前で、シエルがふと足を止める。
「その服だと、旅人ってすぐ分かっちゃうね。」
店先には可愛らしい服が並んでいる。心羽は目を輝かせながら見て回り、最終的にクラシカルなジャンパースカートを選んだ。
「どうかな…?」
着替えて店から出ると、シエルは優しく頷いた。
「うん、よく似合ってる。これで街にも馴染めるね」
心羽は嬉しそうにスカートの裾を摘まんだ。
そのまま商店街を歩いていると、一羽の小鳥が羽ばたきながらシエルの肩へ止まった。
「おや、おかえり。」
シエルはごく自然に話しかける。
「チチッ、チチチッ!」
シエルは耳を傾けるように目を閉じる。
「……そっか。」
表情が少しだけ揺れた気がした。
「ありがとう。彼に伝えてくれるかい。」
頭を優しく撫で、白い羽を二枚渡す。
「チチッ!」
小鳥は羽を咥えたまま空高く飛んでいった。
心羽は目を丸くする。
「今、お話してたの?」
「うん。」
「鳥さんと、本当に?」
「もちろん。」
シエルは得意げに笑う。
「鳥たちは空から町中を見てるからね。案外、ボクより物知りなんだ。」
「何を話してるの?」
「美味しい木の実がある場所とか、パンくずをたくさん拾える場所とか。」
「ふふっ。」
「今朝は『知らない子が森で寝てる』なんて話もしてたたかな。」
「そんなことまで?」
「鳥たちは意外と噂好きだからね。」
心羽は感心したように頷く。
「じゃあ、名前もあるの?」
「ある子もいるよ。」
シエルは少し考える。
「でも鳥同士は鳴き声で呼び合うから、人間にはちょっと難しいかな。」
「さっきの子は?」
「えーっとね。」
シエルは喉を鳴らし、本物の小鳥と見分けがつかないほど澄んださえずりを発した。
「――っていう名前。」
「えぇー!その声どこから出てるの!?」
シエルはいたずらが成功した子どものように笑った。
「ふふっ。内緒だよ。」
少し歩いてから振り返る。
「そうだ。せっかくだし、ボクのお気に入りのカフェで少し休もうか。」

カフェテラス

二人は通りに面したカフェテラスへ腰を下ろした。
店員が運んできた果実ジュースを一口飲み、心羽は目を輝かせる。
「おいしい!」
「でしょ?ここのおすすめなんだ。ほどよい甘さで飲みやすくて。」
心羽はジュースを両手で持ったまま、向かいに座るシエルを見つめる。
「そういえばさ。」
「ん?」
「街を歩いてて思ったんだけど、翼があるのってシエルだけなんだね。」
「あ、気付いた?」
「森で会った時は、翼がある人が普通にいるんだと思ってた。」
「ああ、そういうこと。」
シエルは少しだけ胸を張る。
「すごいでしょ。ボクだけの個性だよ。」
「シエルだけの特別なもの?」
「うん。だってほら、ボクの前世って鳥じゃん。」
「えっ!?」
目を丸くする心羽。シエルは口元へ人差し指を当てる。
「ここだけの秘密だよ?」
「もう、本当なのか冗談なのか分かんないよ。」
心羽は小さく笑った。
少しして、シエルがジュースを置く。
「そういえば、ボクも聞いていいかな。」
「なに?」
「キミは、どこから来たの?」
「朝憬市。」
「……アカリシ?」
シエルがその言葉をゆっくり繰り返す。
「初めて聞く地名だね。」
「そうなの?日本にある街だよ。」
「……ニホン。」
シエルはその言葉を確かめるように呟いた。
「へぇー。そんな場所があるんだね。」
「星がきれいな街だったよ。」
「星?」
「夜になると、空いっぱいに見えるの。」
シエルは窓の外へ視線を向ける。
「それは素敵だね。」
「うん。」
心羽が頷いたその時。

――ドンッ。地面が大きく揺れる。
食器が震え、ジュースの表面に波紋が広がった。
続いて街の奥から悲鳴が響く。
「きゃああっ!」
「逃げろ!」
声の方を振り返る。商店街の入口から、影魔の群れが雪崩れ込んできていた。
露店の商品は蹴散らされ、木箱が宙を舞う。
店主は商品もそのままに店内へ飛び込み、母親は幼い子どもを抱えて建物の奥へ駆け込む。
次々と扉が閉まり、慌てて人々が逃げ惑う。
「そんな……!」
心羽は思わず立ち上がった。
ついさっきまで笑顔で溢れていた街が、一瞬で恐怖に染まっていく。
「シエル、どうしよう!?」
シエルは立ち上がり、じっと影魔を見据えている。
その表情から、先ほどまでの柔らかな笑みは消えている。
「ボクから離れないで。」
その声は低く、それでいて落ち着いていた。
一体の影魔が、逃げ遅れた人影を追うように進路を変えた。一直線に、カフェテラスへ駆け込んでくる。
「来る!」
シエルは心羽の手を掴み、素早く後ろへ引く。
同時に、空いた方の手を影魔に向けた。
すると、離れた席のパラソルが、突風に押されたように倒れ込んだ。
ガタン、と音を立てて影魔の進路を塞ぐ。
しかし次の瞬間、影魔は鋭い爪を振り抜いた。布も骨組みも、容易く切り裂かれる。
「……っ」
シエルは表情を変えず、次々と周囲のパラソルを倒していく。それでも影魔は止まらない。砕けた木片を踏み砕きながら一直線に迫る。
「そんな……!」
心羽は咄嗟に両手を突き出す。
(イジェンドの炎なら…!)
ぱちり。伸ばした手元から赤い火花が散る。
火の粉は影魔の胸へ降り注ぐが――何も起きない。
影魔はよろめきすらせず、歩みを進める。
「ぜんぜん効かない……!」
心羽の表情が青ざめる。影魔は腕を振り上げた。
「心羽、こっち!」
シエルは心羽の肩を抱き寄せ、その場から滑るように飛び退いた。
爪が空を切る。
そのままシエルは椅子を蹴り飛ばす。木製の椅子が影魔の脚へぶつかり、わずかに体勢が崩れた。その隙に二人は距離を取る。しかし、このまま下がれば、背後には避難しきれていない人たちがいる。
シエルは足を止めた。心羽をそっと後ろへ下がらせる。
白い翼が大きく広がる。
「はあっ!」
ごう、と風が爆ぜた。
翼の羽ばたきとともにガラスの破片や木片が吹き飛ばされ、影魔へ叩きつけられた。
影魔はなおも歩みを止めない。瓦礫を押しのけ、一歩、また一歩と迫る。
「……っ!」
シエルは押し返そうとしている。でも、押し切れない。
だったら。
心羽は折れた椅子の脚を掴んだ。
「やぁーっ!」
シエルの脇を飛び出し、その木片を影魔に向かって振り下ろす。
「心羽!?」
鈍い音。だが影魔は微動だにしない。
握る手元からは火花が弾ける。しかし、昨日見た炎には及ばない。
次の瞬間、影魔が腕を払う。
木片はあっけなく弾き飛ばされ、心羽の身体も大きく体勢を崩した。
影魔の爪が、高く振り上がる。
(まずい!)
シエルが踏み込む。けれど、届かない。
振り下ろされる――
そう思った瞬間だった。

ガァンッ!!
重い衝撃音。
振り下ろされるはずだった爪は、心羽の目の前で止まっていた。
一本の大剣が、その一撃を真正面から受け止めている。
「……!」
心羽は息を呑んだ。目の前で揺れる赤い髪。
イジェンドだった。
影魔の懐へ踏み込むと、そのまま体勢を崩すように刀身で押し込み、腹部へ鋭い蹴りを叩き込んだ。
巨体が大きく浮き上がり、石畳を転がるように吹き飛ぶ。
「イジェンド!」
彼は何も答えない。ただ一度だけ周囲へ視線を巡らせ、人々との距離を確かめる。
ゆっくりと剣を構えた。
手元から炎が溢れ、刀身へ絡みつく。赤く、静かに燃え上がる。次の瞬間。
一閃。
炎の軌跡が一直線に走る。
影魔は叫ぶ間もなく炎へ包まれ、そのまま灰となった。
しかしイジェンドは、もう次の影魔へ駆け出していた。
一歩、また一歩。剣が振るわれるたび、赤い炎が街を駆け抜ける。影魔が灰となって崩れ落ちる。
逃げ惑っていた人々は、ただ立ち尽くしてその背中を見つめることしかできない。
誰も近寄れない。ただ一人で、街を襲う群れを押し返していく。
やがて最後の一体が崩れ落ちると、炎だけが静かに消えた。
街は、水を打ったような静寂に包まれる。
煙が風に流れていった。
「……終わった。」
誰かが呟く。
イジェンドは何も言わない。
剣を肩へ担ぎ直すと、そのまま踵を返して歩き出した。
静寂。煙だけが風に流れていく。
「心羽、ちょっとごめん、またあとで!」
シエルはそう言い残すと、慌ててイジェンドの背中を追いかけていった。
心羽はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる二人を見送った。


路地裏

ふと、辺りを見回す。
倒れた露店。砕けた木箱。石畳には黒い灰が散り、風に吹かれてゆっくり舞い上がる。
人々は散らばった荷物を拾い、倒れた屋台を起こし、黙々と後片付けを続けていた。さっきまで笑っていたパン屋のおじさんも、お客さんたちも、今は誰も笑っていない。疲れた表情だけが広場に残っていた。
影魔は、あんなに簡単に人を悲しい気持ちにしてしまうんだ。
どうしたらこの人たちに、優しいことができるだろう。
まずは、近くの木箱へ駆け寄った。
「これ、運びます!」
抱えようとする。
「……重いっ。」
少し浮いたところで腕が震えた。
「ありがとう。でも大丈夫。」
青年は苦笑しながら木箱を受け取り、軽々と抱え上げてしまう。
「あ……。」
手伝えなかった。
今度は崩れた塀へ向かう。散らばったれんがを拾い、一つずつ積み始める。
「ああ、ごめんね。」
店主が優しく声を掛けた。
「それはそっちじゃないんだ。」
「あっ、ごめんなさい!」
「謝らなくていいよ。」
店主は笑う。
「手伝おうとしてくれたんだろ?」
心羽は小さく頭を下げた。
何もできなかった。みんなの真似をすれば、私にもできると思ったのに。私にできる優しいことって、何だろう。
その時だった。
すすり泣く声が聞こえた。思わず振り返る。
路地裏の隅で、幼い女の子が小さく膝を抱えて座っていた。
周りに大人はいない。心羽はそっと近づく。
「こんにちは。」
少女は返事をしない。赤くなった目でこちらを見るだけだった。その顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなる。
私もこんなふうに、泣いていたことがあった気がする。あのときの私は、隣にいて、話を聞いてくれる人がいた。私も、あんなふうになれるかな。
心羽は目線を合わせてしゃがみ込む。
「何かあったの?」
返事はない。
「怖かった?」
少女は小さく唇を噛むだけだった。
どうしよう。お話するだけじゃ足りないかな。この子は何をしたら笑うんだろう。
ふと、イジェンドの炎が頭をよぎった。
そうだ。
「ねえ、」
心羽は人差し指を立てた。
「ちょっと見てて。」
ぱちり。
指先で、小さな火花が弾ける。少女の目が少しだけ丸くなる。
心羽は指をゆっくり回した。火花もくるりとついてくる。
もう一度。手を握って、開く。
今度は小さな火花がいくつも浮かび上がった。夜空の星みたいだった。
心羽が手を動かすたび、光の粒が路地裏をゆっくり漂う。
「わぁ……。」
少女が初めて声を漏らした。
「私ね、魔法使いなんだ。」
心羽は少し照れながら笑う。
少女は泣くことも忘れて見つめていた。
「やってみる?」
こくり。少女が頷く。
心羽は少女の人差し指へ、自分の指先をちょこんと重ねた。
ぱちり。小さな火花が灯る。
「ゆっくり動かしてみて。」
少女がおそるおそる指を動かす。
火花も一緒についてくる。
「きれい……。」
少女が笑った。
その笑顔を見た心羽も、つられるように笑っていた。
「もっと自由に動かしていいよ。」
少女は立ち上がり、指先で光を追いかける。
心羽も周りへ火花を散らし、きらきらと華やげに飾る。
小さな星たちが二人の周りを踊る。
少女の顔から悲しみがすっかり消え、路地裏に笑い声が戻ってきた。
「まあ!」
振り返ると、息を切らした女性が立っていた。心羽は慌てて火花を消す。
「こんなところにいたの!」
少女を抱きしめる。
「探したのよ……!」
その表情から張りつめていたものが、一気にほどけた。
「こんにちは。親御さんですか?」
「ええ。」
女性は少女と心羽を交互に見る。すると少女が嬉しそうに言った。
「このお姉ちゃん、一緒に遊んでくれたんだよ!」
女性は深く頭を下げた。
「そうだったんですか。ありがとうございました。」
「いえ。元気になってくれてよかった。」
少女は母親に手を引かれながら、大きく振り返る。
「またね、魔法使いのお姉ちゃん!」
心羽も精一杯手を振った。
「うん、またね!」
笑顔でその背中を見送った。


レストラン

あれからしばらく、心羽は一人で街を歩いていた。
結局、あの後できることはほとんどなかったな。そんなことを考えながら歩いているうちに、いつの間にか夕方になっていた。茜色の光が建物の壁を染め、街灯がぽつぽつと灯り始めている。
「おや、小さき森の迷い子さん。」
ふいに、頭上から声が降ってきた。心羽は顔を上げる。
二階建てのレストラン。その屋根の上に腰掛けたシエルが、集まった小鳥たちに餌をやっていた。
「シエル!」
「街を歩いてみて、どうだった?」
相変わらず鳥がさえずっているような声。
「今日は、みんな悲しい顔をしてた。」
「そうだね。」
シエルは餌を撒きながら、屋根の上から街を見渡す。
「そうだ。せっかくなら、キミもここから街を見てみるといいよ。きっと違った景色が見えるはずさ」
「えっ、その屋根の上で?」
「うん。ボクのお気に入りの場所さ。」
シエルは翼を広げ、ふわりと屋根から降りてきた。そのまま心羽の手を取った。
「それじゃ、行こうか」
再び翼を広げると、二人の身体が屋根の上へ舞い上がった。風が心羽を包み、全身がふわりと押し上げられる。
「わぁ……。」
昼間に飛んだ時とは、少し違う。赤く染まった街並みが眼下に広がっていた。シエルは屋根の縁に腰を下ろし、心羽にも隣へ座るよう促した。
「こうして見ると、また違って見えるでしょ?」
「そうかも。」
さっきまで歩いていた道も、屋根の上から見るとずっと小さく見えた。けれど、景色を眺めているうちに、心羽は足元へ視線を落とした。
すぐ下に地面がないことが、だんだん怖くなってくる。
森でシエルと飛んだ時より、ずっと低いのに。
「座らないのかい?」
「ちょっと、怖いかも…」
「なら、手を繋いでてあげよう。それとも、腰に手を添えて欲しい?」
「それはちょっと…」
心羽はシエルが伸ばした手をしっかりと握り、恐る恐る腰を下ろした。両脚が宙へ投げ出される。
「シエルに連れられて飛ぶときは怖くないのに、不思議だな…」
背丈は心羽とそう変わらないはずのシエルの背中が、なんとなく大きく見えた。
「……そういえば、シエルはあのあとどうしてたの?」
「ん?」
「イジェンドとどこかに行ってたよね」
「ああ、それはね」
シエルは足をぶらぶらさせながら答えた。
「彼が街から離れる前に、しばらく街にいてもらうようお願いしてたんだ。」
「それはどうして?」
「次の襲撃の可能性があったからね。」
シエルはさらりと言った。
「今回は被害も大きかったから、次があるともたない。念のために残ってもらったのさ」
「……そっか。」
心羽は眼下に視線を落とした。
まだ散らかったカフェテラスが見える。
「じゃあ、イジェンドが来てくれなかったら……どうなってたの?」
シエルの返事は少し間があった。
「影魔の数が少なければ、街のみんなで追い払うことはできるよ」
「みんなで?」
「うん。影魔に備えて鍛えてる人たちもいるからね」
けれど、とシエルは続けた。
「今回みたいに数が多いと、被害は抑えられない」
その言葉で、昼前の光景が蘇る。逃げ惑う人々の、怯えきった表情。直前まであんなに賑わっていたのに。
「じゃあ、そういう時って……」
「できることは少ないよ。」
シエルは困ったように笑う。
「家や店を捨ててでも、ひたすら隠れてやりすごす。それくらいしかないかな。」
「そんな…。」
「じゃあ、イジェンドの代わりになる人はいないの?」
「こればっかりはね」
シエルは苦笑する。
「イジェンドの強さは、ちょっと別格なのさ。影魔を倒せる人自体、この街にはほとんどいない。ましてや、あれだけの数を一人で相手にできる人なんてね」
心羽の脳裏に、昼間のイジェンドの姿が浮かんだ。
大剣を構え、炎を纏い、たった一人で影魔の群れを押し返していた背中。
「そっか……」
「もしイジェンドが来てなかったら…。」
「うん。もっと大変なことになっていただろうね。」
シエルも街へ視線を向ける。
「だから、ボクが呼んだのさ。」
「えっ、シエルが?」
心羽が振り向く。
「うん」
「でも、どうやって…?」
シエルは振り返り、いつもの笑顔を浮かべる。
「それがボクの仕事だからね。」
「仕事?」
「そう。人と人を、情報で繋ぐ仕事さ」
シエルは周囲を飛び交う小鳥たちへ目を向ける。
「人を探したり、街の噂を集めたり。鳥たちにも協力してもらってね。」
「ああ……だから、鳥さんたちと話してたんだ」
「そういうこと。」
シエルは得意げに胸を張る。
「いわゆる、情報屋ってやつさ。」
「情報屋……」
「今回みたいに、影魔の動きを探ったり、必要な人に知らせたりするのもボクの仕事。イジェンドを呼び戻したのも、その一環だね」
「へぇー、すごい……」
「でしょー?」
シエルは嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、」
心羽は少し身を乗り出す。
「影魔のことも知ってる?」
「もちろん。」
シエルは即答した。
「影魔は、どうして人を襲うの?」
「……。」
シエルは少し目を細めた。
「影魔の目的は、絶望なんだ。」
「絶望……。」
「人を傷つけたり、怖がらせたり、悲しませたりする。そうやって生まれた絶望を、影魔は求めているんだ。」
心羽は黙って聞いていた。
「だから、影魔は人のいるところを襲う。街だって、森だって関係ない。人がいて、絶望が生まれる場所ならね」
「……。」
心羽は唇を結んだ。
逃げ惑う人たち。泣いていた子ども。壊れてしまった街。
あれが、影魔の欲しかったもの……。
「じゃあ……」
心羽は、夕暮れの街を見下ろした。
「そんな影魔をたくさんやっつけられるイジェンドって、すごく“優しいこと”ができる人なんだね」
「ははっ。そうだね」
シエルが笑った。
「本人が聞いたら、『何言ってんだ』って顔しそうだけど」
「ふふっ」
心羽も笑った。
「じゃあ私……二人目のイジェンドになりたいな」
「二人目のイジェンド?」
「うん」
心羽は頷いた。
「イジェンドがそんなにたくさん“優しいこと”ができるなら、私もそんな人になりたい。」
シエルは少しだけ目を丸くした。けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「二人目のイジェンドかぁ」
シエルは楽しそうに笑った。
「いいね。キミがどんな人になるのか、楽しみにしてるよ」
心羽も笑った。
茜色だった空は、いつの間にか少しずつ夜の色へ変わり始めていた。街のあちこちに灯る明かりが、星のように瞬いている。二人はしばらく何も言わず、その景色を眺めていた。


空き地

夜になっていた。街灯が仄かに照らす街を、星空が静かに見守っている。中心街から少し離れた空き地で心羽は、一本の木の枝を剣代わりにして振っていた。
「えいっ!」
振り下ろす。
「……こうかな。」
もう一度。
「やっ!」
今度は横へ薙ぐ。けれど、枝の先は大きくぶれ、勢いに引っ張られて身体までよろめいた。
「わっ……!」
慌てて足を踏み直す。
昼間、イジェンドが振るっていた剣は、もっと簡単そうに見えた。
「もう一回……。」
心羽は枝を握り直した。今日の背中を思い出し、足を開く。両手で枝を構える。
「違う。」
背後から、低い声がした。
「ひゃっ!」
突然の声に、心羽は飛び上がった。
振り返ると、少し離れた場所にイジェンドが立っていた。
「イ、イジェンド……?」
「何してる。」
「剣の練習!」
心羽は枝を掲げてみせる。イジェンドはそれを一瞥すると、ため息をついた。
「それじゃ剣にはならん。」
「えぇっ、でも……。」
「握りが強すぎる。肩にも力が入りすぎだ。」
「そうなの?」
「足も近い。」
心羽は言われた通りに足を開く。
「これくらい?」
「広すぎる。」
「じゃあ……これ?」
「まだ狭い。」
「難しい……。」
「ああ。簡単じゃない。」
イジェンドは心羽の横まで歩いてくると、枝の持ち方を指で示した。
「手首を固めるな。力を入れるのは振る瞬間だけだ。」
「こう?」
「そう。」
心羽は言われた通りに構え直す。
「……振ってみろ。」
「えいっ!」
先ほどよりも、枝がまっすぐ振り抜けた。
「わぁ。」
心羽自身が驚いたように枝を見る。
「できた。」
「さっきよりはましだ。」
「まし……。」
心羽は少しだけ頬を膨らませた。
「じゃあ、もう一回!」
「勝手にしろ。」
心羽は嬉しそうに枝を構え直した。
何度か振るうちに、動きは少しずつ形になっていった。まだ剣術と呼べるようなものではない。それでも、教えられたことを一つずつ試し、何度でもやり直そうとしている。
イジェンドはその様子を黙って見ていた。
昼間もそうだった。誰もが逃げようとする中、ガキのくせにこいつは、自分から影魔に突っ込んでいた。
普通のガキなら、そうはならない。
「……変わったやつだ。」
「え?」
「なんでもない。」
イジェンドは背中の大剣を引き抜いた。
「持ってみろ。」
柄を差し出され、心羽は目を丸くする。
「この剣を?」
心羽はおそるおそる柄を握った。
教わった通りの持ち方で構えてみると、イジェンドが剣から手を離した。
その瞬間、剣先が音を立てて地面に落ちた。
「重っ…!?」
構えるどころか、持ち上げるのさえままならない。
「こんなのを、振り回してたの……?」
イジェンドは大剣を軽々と拾い上げ、背中へ戻した。
「続きは、これを持てるようになってからだ。」
「え?」
「今日はもう遅い。」
心羽は辺りを見回した。
いつの間にか、街の明かりもずいぶん少なくなっている。
「そっか……。明日もやっていい?」
「好きにしろ。」
「うん!」
心羽が笑う。イジェンドはその顔を一瞥して、歩き出した。
「お前、」
数歩歩いたところで、イジェンドは振り返った。
「今夜どこで寝るつもりだ。」
心羽はきょとんとする。
「どこって……?」
「宿は取っていないんだろ。」
「うん。」
心羽は少し考えた。
「シエルに聞けば、どこか見つけてくれるかも。」
「……。」
イジェンドはしばらく黙った。
「なら、うちに来るか。」
「え?」
「部屋なら余っている。」
心羽は目を丸くする。
「私が泊まっていいの?」
「駄目な理由があるのか?」
「いや……そうじゃなくて……」
心羽はイジェンドを見つめた。
「……なんか、意外だなって」
「何がだ」
「イジェンドが、私を家に入れてくれるなんて」
「泊まる場所がないんだろ」
「うん」
「なら、空いてる部屋を使えばいい。」
「……ふふ。そっか。」
心羽は少しだけ笑った。
「じゃあ、お邪魔します」


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