0 No.1 2 / 4 (Update) みんなに公開
2020年4月13日。その日の朝憬英道大学文学部一回生、花森健人(はなもりけんと)のスケジュールは、言語学と哲学概論の講義が午前中に1コマずつ。午後は自宅アパートの最寄りの古本屋兼ゲームショップ“ぶりっじ”でのアルバイト勤務が3時間だった。
「…腰痛い」
昨日は3時間も姿勢悪く、机に座してパソコンで絵を描いていたからか、19歳にして時折少々感じる腰痛が出てきている。そんな一日の始まり、おまけに月曜日———面倒以外の何物でもない。起きるの怠い…この起き抜けにカーテンの向こうから差し込んでくる朝日。不意に突き付けられる現実感。こうも身体も意識も重苦しい日には、布団の外には出たくない。スマートフォンのアラームが鳴る。二週間前、大学入学と同時に買い換えたばかりで、その音色は初期設定のままだ。そのエレクトロな音色が、未だカーテンを閉めきった薄暗い部屋の中に響く。
「あぁ…」
訪れる一日の始まりの音が鬱陶しい。そう急かすなよ、頼むから…健人はスマートフォンを半開きの眼で睨みつけ、その電源ボタンを押すと、光るディスプレイに表示されたロック画面を操作する。“AM6:30”と表示するアラームアプリを憎々し気に停止した後、彼はベッドからその身を起こした。
「さむ…」
布団の温かさから離れてすぐは、まだ4月中旬の気温は少し肌寒い。カーテンを開けて朝日を部屋に取り込むも、その眩しさに目を細めてしまう。“気持ちがしんどくならないように、日当たりだけはいい場所を”と両親に言われて借りた1Kだが、特段感情に変化はない。一日の最初の一呼吸には、冷たさと虚無が含まれていた。
9:00開始の言語学の講義では、人の意思疎通の媒体である言葉、その本質というものについて教授が論じ、続いて10:40の哲学概論では、世界の成り立ちや人間とは何かを教授が学生に問いただす。だが健人はそれに真面目に取り組もうとは思えなかった。
”そんなことが何だというのか。分かったようなことを言いたいだけだろう?"
心中でそんな台詞を吐き捨て、講義を聞き流しながら、座した長机の下でスマホゲームの周回に勤しむ。やがてゲーム内のスタミナが無くなれば、ノートを取るフリをしながら、彼は自分の空想するキャラクターのラフ画を”落書き”していた。
“俺はもう、ただ平穏で居たいんだよ”
それが、くたびれた残りの人生をやり過ごすために、健人が唯一心掛けることだった。
午後に入ると、キャンパス内にある学生食堂の隅で健人は一人、唐揚げ定食を食べ、大学を出て“ぶりっじ朝憬店”に向かうべく自転車を漕ぐ。到着して仕事仲間に一応の挨拶を交わし、仕事着であるネイビーブルーのエプロンを肩にかけたころには時間は12:53。基本的にシフトは平日の昼間に入れることにしている。オタク趣味で特撮を始め、ゲームなどもそこそこ嗜んでいたことから、これらを扱っているぶりっじでのバイトを始めてみたが、この時もすぐに立ち尽くしてしまっていた。
”マジでどう動けばいいのかわからねえ…”
面倒な接客・電話対応、一向に慣れないレジ打ち、商品の配置やバックヤードの管理はどうすればいいのか掴めない…要はこれら全てが向いていないことは、勤め始めてすぐに分かった。今日も同僚であるパートの主婦、松山にゲームソフトの包装の仕方がなってないと指導を受ける。それは仕方ないとしても、健人の慣れない手つきに彼女は苛立ち、「違うでしょう」とこちらの余裕を奪う言い方をしてきた。険しいおばさんの顔の皺を見ながらふと思う。
”気楽なもんだ…この人生やってみろよ”
バイトを終え、アパートに帰ろうと17時前にぶりっじから発った。どこか遠くに行きたいと思うが、そうしたところでこの息苦しさは付いて回る。“花森健人の自我”とこの“息苦しさ”は切り離すことは難く、どこかに置いていくこともできない。最初からそういう構造の人間モドキ。それが健人の、自身に対する評だった。しかし近所のスーパーで、一応の自炊のための食材は買わねばならない。そんな状況にあって尚、健人の心は自身の構造を呪う思考や、ここまでの人生に係わってきた全てを嘲りたいといった醜悪な感情に乗っ取られる。今はせめて、そこから離れたい。自転車は遂に目的地のスーパーとは別方向へ走り出した。
ペダルを漕ぐ足が止まったら、自分の呼吸まで止まってしまうような気がして、健人は自転車を漕ぎ続けていた。しかしやがて自転車の速度は緩み、ペダルやタイヤと連動していたライトは消える。周囲の景色は夜空の闇に包まれ、木々や林の影が目立っていた。辺りに人は誰もいない。だが街の北東、郊外からおおよそ5キロほど離れた場所に位置する展望台から、淡い光が発せられている。最後にあの光を目指したのはいつだったろうか…その時のことを考えると、不思議と自身を呪う思考は鳴りを潜めた。肩で息をしたままではあるが、再度ペダルを漕ぐ足に力を籠め視線を前方に戻す。その時———
目の前に、異形がいた。
「その虚ろ、頂こうか…」
不意に眼前に迫る異形の人型。闇夜の中、薄ぼんやりとした街灯の明かりが、烏を想起させるその黒い相貌を浮かばせる。人間のそれではない赤い眼が、健人を捉えて離さない。
「…えっ」
息を飲みながら不意に口から転げ出たのは、そんな呆気ない言葉だった。脳が恐怖を理解するよりも前に、身が竦み上がる。次の瞬間には烏に握られた太刀が健人の胸に突き刺さっていた———否、沈み込んでいた。
健人はその異質な感覚に視線を胸元に下す。胸は血が噴き出ることはなく、また皮膚を貫かれたわけでもない。代わりに胸には沈み込んだ太刀を中心として闇色の汚濁が溢れた。それは渦となり、奔流となってそれこそ返り血のように噴きあがる。叫びだす瞬間、口を塞ぐように顔から掴み上げられた。烏の腕を引きはがそうと藻掻くように自身の手が動くも、その凄まじい力には及ばない。つま先立ちになった足元に自転車が倒れる。
生命の恐怖。ついに止まりそうになる呼吸。焦点を失った健人の目からは涙がこぼれる。
”―――何で俺なんだ”
溢れ出る汚濁の奔流を浴びる烏は、その様をただ憮然として見つめていた。
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