2 千想の魔法【3.光環の狩人】 みんなに公開
庭
翌朝。イジェンド邸の庭に、乾いた音が響いていた。
「……やぁっ!」
心羽が両手で剣を振り上げる。
――振り上げようとした。
剣先はほとんど動かず、心羽の身体だけが後ろへ傾く。
「わっ……!」
尻餅をつきそうになり、慌てて踏みとどまる。
「……重い。」
手にしているのは、イジェンドから渡された剣。
彼が昔使っていたものらしく、今朝、練習に使っていいと言って貸してくれたものだ。
その後、イジェンドは影魔狩りに出かけていった。
「けどこれ、どうやって振るの……?」
心羽は剣を見つめる。
両手で抱えれば、なんとか地面から浮かせられるようにはなった。けれど、とても振れるような重さではない。
「イジェンドは、これを振り回してるんだよね……。」
改めて思うと、とんでもないことのように思える。
それでも心羽は剣を握り直した。
「もう一回。」
腰を落とし、足を開く。
両手に力を込めて――。
「んんん……!」
剣先が、ほんの少しだけ持ち上がった。
「……よし。」
その時だった。
「ピィッ!」
頭上から、小鳥の声がした。
「ん?」
心羽が顔を上げる。
一羽の小鳥が庭へ降りてきた。心羽の周りをくるくると飛んだあと、目の前の柵にちょこんと止まる。
「どうしたの?」
小鳥の足には、小さく折り畳まれた紙が括り付けられていた。
「お手紙?」
心羽は剣をそっと地面に置き、小鳥を驚かせないように近づく。
「見せてね。」
足から紙を外して広げる。
そこには、流れるような筆跡で文字が並んでいた。
「これは……シエルかな。」
『親愛なる旅人よ。キミのその心意気を見込んで、ひとつお願いがあるんだ。
西の門の近くで影魔の気配があってね。このままだと街に入ってくるかもしれない。よければ現地へ様子を見に行ってはくれないかな。
もちろん、タダ働きというわけにはいかないさ。報酬はきっちり用意しておくよ。
道案内は、その子に聞いてみて。』
「影魔……。」
心羽の表情が変わる。
「行かないと。」
心羽は地面に置いた剣を見つめた。
「これは帰ってきてから練習しよう。」
心羽は手紙を折り畳み、ポケットへしまった。
「案内してくれる?」
「ピィ!」
小鳥が翼を広げる。
心羽もその後を追うように、庭を駆け出した。
西門
小鳥のあとを追い、街を駆け抜ける。賑わう商店街の間を縫って走り、西の門をくぐる。少し進んだところで、小鳥がふいに地面へ降り立った。
「ここ?」
「ピィ!」
小鳥は一声鳴くと、翼を広げて飛び去っていった。
「案内ありがとね!」
心羽は手を振って見送る。
この辺りには草原が広がっていた。その先には森があり、木々の間から朝の光が差し込んでいる。
街からはそんなに離れておらず、喧騒がここまで聞こえてくる。
心羽は森の方へ目を向けた。シエルの手紙には、影魔の気配があると書かれていた。けれど、今のところ、それらしい姿は見えない。
「昨日みたいに、たくさんいたらどうしよう……。」
胸の奥が少しざわつく。あの時の光景がまだ頭から離れない。
辺りを見回すと、丈夫そうな枝が落ちていた。心羽はそれを拾い上げる。
「剣は重くて持ってこられなかったから……。」
両手で握る。昨日、イジェンドに教えてもらった持ち方を思い出す。手首を固めすぎない。足を開いて、腰を落とす。
「これなら……。」
心羽は枝を構え、森の方を見つめた。
「……ん?」
木々の間に、何かが動いた。黒い影がひとつ。ゆっくりと森から姿を現し、こちらへ向かってくる。
「影魔……!」
心羽の身体が強張る。
影魔は真っ直ぐに草原を進んでいく。その先にあるのは、西の門。
「街に……行く気なんだ。」
影魔が、また一歩進む。心羽は枝を握り直した。
「……させない。」
怖い。けれど、ここを通したら、昨日と同じことになる。
心羽は影魔の前へ駆け出した。
「やぁっ!」
枝を振り下ろす。
しかし、影魔の腕がそれをあっさりと弾いた。
「わっ!」
よろめきながらも、心羽はすぐに立て直す。
「もう一回!」
横薙ぎ。しかし、枝は影魔に届かず空を切る。
「えいっ!」
今度は正面から振り下ろした。
その瞬間。
ぱきん。
乾いた音がした。
「……え?」
枝が、真っ二つに折れていた。
「うそ……。」
心羽は折れた枝を見つめる。
影魔は止まらない。
「待って!」
心羽は折れた枝を投げ捨て、影魔の前へ回り込む。
「こっちに来ないで!」
両手を伸ばす。
「イジェンドの魔法……!」
指先から、赤い火花がぱちぱちと溢れる。
「はぁっ!」
放つ。たくさんの火花が影魔に飛んでいく。しかし、それらは影魔に触れた瞬間、あっけなく消えていった。
「そんな……!」
また一歩、後ろへ下がる。
さらに一歩。気づけば、西の門がすぐそこまで迫っていた。
「……!」
心羽は振り返る。
その向こうには、たくさんの人がいる。
「……だめ。」
心羽は唇を噛んだ。もしここで影魔を食い止められなければ……。
影魔はゆっくりと近づいてくる。
どうしよう。止められない。それは嫌だ。でも……!
昨日の光景が蘇る。
たった一人で、影魔の群れを押し返していたイジェンド。
怯える人たちの前に立ち、その背中で街を守っていた。
そして昨夜、自身が口にした言葉。
二人目のイジェンドになりたい。
「……私も。」
小さく呟く。
影魔が迫る。
心羽は震える手を握りしめた。
「私も、イジェンドみたいになれたら……!」
その瞬間、ポケットの中が熱くなった。
「……え?」
心羽が手を入れるより先に、隙間から赤い光が漏れ出す。
取り出したのは、昨夜手にした星座の結晶だった。
「これ……。」
見つめているうちに、結晶の中からひとつの星が浮かんだ。またひとつ。さらにひとつ。浮かんだ星々を、細い光が次々と結んでいく。
目の前に、ひとつの大きな星座が浮かび上がった。
「なに、これ……!」
心羽は息を呑む。見覚えがあった。
昨夜、イジェンドの背中に見えた星座。ずっと見ていたその姿に、もう届く距離。
心羽は思わず手を伸ばした。指先が星座に触れる――。
その瞬間、ぱあっと光が溢れ出した。
心羽の身体を包んでいく。衣服が光へ溶け、黒い外套を身体に纏う。黒のロングブーツ。分厚いグローブ。首元には、翡翠のネックレス。短かった髪はいつの間にか長く伸び、高い位置でひとつに結ばれている。
「……これって。」
心羽は自分の姿を見下ろした。何度も憧れたイジェンド。その姿を、自分が身にまとっている。
「イジェンドみたい……!」
胸の奥が、ぱっと明るくなる。
「これなら……!」
顔を上げると、影魔が駆け出していた。
「わっ!」
心羽はとっさに両手を前へ突き出す。
「えいっ!」
手のひらから、炎が広がった。
それはもう、昨日までの火花ではなかった。赤い炎が渦を巻きながら大きく膨らみ、目の前を一瞬で埋め尽くす。
炎はそのまま、迫ってきた影魔に直撃した。
「……えっ?」
影魔も怯まずにはいられず、数歩後ずさる。
心羽は目を丸くした。
「……すごい。」
自分の手を見る。
さっきまで、一度も燃え広がらなかった炎が。
今はこんなにも大きく燃えている。
「これ……私の魔法?」
影魔が体勢を立て直した。
「来る……!」
心羽は身構えた。
その瞬間、炎が両手の中で何かを象ってゆく。
「え?」
炎が両手からまっすぐ伸び、一本の柱のように立ち上がった。
「今度はなに……?」
長く、鋭く伸びていく炎。
やがて炎は、柄を形作った。その先に、鍔が生まれる。
そして――。
赤く燃え盛る刀身が、炎の中からゆっくりと姿を現した。
「……剣だ。」
見覚えがある。昨日、何度も見たもの。
「イジェンドの剣……!」
次の瞬間、ずしんと両手に重みがのしかかる。
「うわっ!?」
身体がぐらりと傾く。
「お、重い……!」
昨夜は少し持ち上げるだけで精一杯だった大剣。
けれど今は、両手で握り直すことができる。
「イジェンドは、これを振ってたんだ。」
心羽は柄を握り直した。
「だったら、私だって……!」
全身の力を込め、勢い任せに剣を振り上げる。
「やぁぁぁっ!!」
剣が持ち上がった。重さに身体が持っていかれそう。それでも、今の身体なら無理やり押し切れる。
「上がった!」
そのまま、剣の重みに身を任せて振り下ろす。
「やぁっ!」
ガンッ。
大剣が影魔を打ち据えた。重く、確かな手応えが返ってくる。
「いける……!」
心羽は剣を構え直した。
昨夜、イジェンドに教えてもらった構え。
足を開く。
腰を落とす。
手首を固めすぎない。
「……こう。」
影魔が飛びかかってきた。
「やぁっ!」
剣を振るった。
刀身から勢いよく炎が噴き出す。
「わっ!?」
自分が出した炎に、心羽自身が驚く。
剣筋は避けられたが、炎が影魔の身体を掠めた。
影魔が大きく身をよじる。
「当たった……!」
剣の重さに身体を振り回されている。でも、戦えている。
もう一度。炎を纏わせて、剣を振るう。
影魔は後ろへ飛んで避ける。
「逃げないで!」
燃え広がる炎も、上手く当たらない。
それでも――。
「もう一回!」
さらに踏み込んで、力いっぱい振り下ろす。
「やぁぁぁっ!」
その瞬間、勢い余って剣がすっぽ抜けていった。
「あっ」
大剣は勢いよく飛んでいき、逃げる影魔に突っ込んでいく。
ドゴォンッ!
大きな爆音が響いた。
剣が影魔に直撃した瞬間、刀身が炎へとほどけて爆発を起こした。巻き込まれた影魔が大きく吹き飛ばされる。
「……え?」
心羽は思わず目を丸くする。
ふらつきながら立ち上がった影魔は、森の奥へ逃げていった。
心羽は呆然と、影魔の背中を見つめていた。
「逃げた……?」
自分でも、何が起きたのかよくわからない。
ただ、影魔は居なくなった。
それでも。
「私も、守れた……。」
胸の奥から、じわじわと嬉しさが込み上げてきた。
「イジェンドみたいに、誰かを守れた……!」
心羽はぎゅっと両手を握りしめた。まだ剣術も未熟だった。炎もまともに制御できていなかった。それでも、心羽は嬉しかった。
二人目のイジェンド。昨夜、自分で口にした夢。
その姿に、少しだけ近づけた気がした。
「……よし!もっと頑張らなくちゃ!」
集会所
ユール城下町の集会所。広間ではたくさんの人々が思い思いに談笑を楽しんでいる。そんな広間の隅にある二人席で、シエルが飲み物を片手に椅子へ深く腰を下ろし、すっかりくつろいでいた。行き交う人々も、そこにいる翼の少年になんの違和感も持っていない。
そこへひとりの少女が入ってくる。少女は広間を見回し、翼を持つ端正な少年の姿を見つけると、そちらへ歩いていった。
「……あなたが、シエル?」
シエルが顔を上げる。
「やあ、キミがエイミーだね。」
「……!」
エイミーは思わず目を開いた。
「ようこそ、ユール城下町へ。」
シエルはにこやかに告げる。
「どうして私の名前を?」
シエルはニヤリと笑った。
「それはボクが情報屋だからさ。」
「なるほど。噂どおりね」
エイミーは向かいの椅子を引き、腰を下ろした。
「じゃあ、私が捜してる人物のことも知ってるのかしら」
シエルは杯を置いた。
「だいたいの見当はついてるよ。金貨五十枚でどうかな」
「……は?」
エイミーの眉間に、わずかに皺が寄った。
「高すぎるわ。」
「そうかな?」
「冗談じゃない。そんなに払えるわけないでしょう」
シエルは肩をすくめた。
「おや、そうかい。じゃあこうしよう」
指を一本立てる。
「核心には触れない。目撃情報だけ話す。それでよければ、銀貨三枚でどう?」
「……ずいぶん下がったわね」
「商談っていうのは、そういうものさ」
シエルはにっこりと笑った。
エイミーは少し考え、懐から銀貨を三枚取り出して机の上に置いた。
「いいわ。」
「毎度あり」
シエルは銀貨を受け取った。
「それじゃあ、キミが捜してる人物だけど……この辺りの森によく出入りしているみたいだね」
「森に?」
「影魔を狩ってる。腕もかなり立つらしい」
エイミーがシエルを見る。
「……それで?」
シエルは杯を手に取った。
「赤い髪をひとつに結んでいて、服装は全身黒」
「連れは?」
「いないね。いつもひとりで行動してる。」
しばらく、エイミーとシエルのやり取りが続いた。
「……そう。森に出入りして、影魔にも関わっている、少し変わった魔法を使う子もいるのね」
エイミーは黙ってシエルを見つめた。
「……その二人、知り合い?」
「さあね」
シエルは杯を傾ける。
「そこから先は、もう少しお代をもらわないと教えられないかな」
「……ちゃっかりしてる」
「えへ。そういう商売なのさ」
シエルはそう言って、また飲み物を口にした。
通り
影魔を追い払ったあと、心羽は街へ戻る通りを歩いていた。胸の奥には、まだ戦いの熱が残っている。
「……そういえば、なんであんな姿に変身できたんだろう?」
イジェンドのようなあの姿は、戦いが終わるといつの間にか元に戻っていた。
心羽は赤い星形の結晶を取り出し、目の高さまで持ち上げる。この結晶が赤く光っていた時、変身することができた。
「これのおかげ…?」
そういえば、まだ名前すらつけていない。
「星座の結晶だから……星晶?」
口にしてみる。
「うん。星晶って呼ぼう。これなら分かりやすいし。」
心羽は星晶を両手で握りしめた。
「……うーん、やっぱり何も起きない」
星晶は、静かに赤く輝いているだけだった。
「あの時みたいに、光ってないと変身できないのかな?」
星晶をじっと見つめる。
「イジェンドを思い浮かべてみる……?」
目を閉じる。昨日見た背中。赤い髪。燃えるような炎。大きな剣。そして、影魔から街の人たちを守っていた姿。
「イジェンドみたいになりたい。」
心羽は、もう一度心の中で願う。
「イジェンドみたいな姿になりたい……。」
その時、手の中にほんのりとした温かさを感じた。心羽は星晶を見つめる。
「光ってはいない。けど……」
イジェンドになりたいと思うことが変身の鍵かもしれない。
その時だった。
「すみません!」
少し離れたところから、慌てた声が聞こえた。心羽が振り返る。
一人の女性が、息を切らしながら通りを走っていた。
「うちの子を見ませんでしたか!?」
女性は道行く人に、必死に尋ねている。
「小さな男の子なんです! このくらいの背で……!」
女性が両手で高さを示す。けれど、誰も心当たりがないらしい。
心羽は女性のもとへ駆け寄った。
「どうしたんですか?」
女性が振り返る。
「うちの子が迷子になっちゃって……!」
こういう時こそ、情報屋のシエルが頼りになるはず。
「私も手伝います!」
森
前方を飛ぶ小鳥を追いながら、心羽は木々の間を駆け抜ける。
男の子はこの森の中にいるらしい。さっきシエルから聞いた言葉が、頭の中によみがえる。
『迷子の男の子なら、さっき報告があったところだよ』
『本当!?』
シエルが一羽の小鳥を呼び寄せた。
『この子が知ってる。案内してもらうといい』
「……ありがとう、シエル!」
小鳥は森の奥へ向かって飛んでいく。そのあとを追って、心羽も走った。
やがて、木の陰に小さな子どもの姿が見えた。
「見つけた!」
「おねえちゃん……!」
泣き腫らした目でこちらを見ている。よく見ると、片方の足を怪我していた。これでは動けなかったのだろう。
「大丈夫……!?」
心羽が駆け寄ろうとしたその時。子どもの背後に、黒い影が見えた。
「危ないっ!」
心羽はとっさに子どもの前へ飛び出し、星晶を右手で掲げた。
あの姿を、もう一度イメージする。
「私だってもう、戦えるんだ……!」
星晶が熱を帯びた。眼前に星座が浮かび上がる。
心羽は星座に手を伸ばし、その輝きに触れた。
「変身!」
赤い光が弾ける。眩しいほどの輝きが心羽を包み込む。
黒い外套を纏う。
ロングブーツ。グローブ。首元には翡翠のネックレス。
心羽は再び、イジェンドの姿をまとっていた。
「やった、変身できた!」
けれど、影魔は待ってくれない。ぐっと距離を詰めてくる。
「……!」
心羽は咄嗟に両手を構えた。炎が両手へ集まっていく。
「えいっ――!」
炎を炸裂させようとして、思わず手を止めた。
すぐ後ろに、子どもがいる。炎を放てば、この子まで巻き込んでしまう。
「だったら……!」
心羽は炎の中から大剣を取り出した。炎を消し、両手で柄を握る。
影魔が飛びかかってくる。
「やぁっ!」
大剣を振るう。やっぱり重い。身体ごと持っていかれそうになる。それでも、なんとか振り抜いた。
影魔が身をかわす。
「もう一回!」
振り上げる。けれど、遅い。
影魔が横へ跳んだ。
「当たらない……!」
剣を構え直す。
思えばイジェンドも、人との距離が近い時は、炎を出していなかった。きっと、今の私と同じだ。
「だったら……!」
もう一度、踏み込む。大剣が影魔を追う。
しかし、影魔の腕が大剣をすり抜けた。
「――!」
避けきれない。
次の瞬間。
ドンッ!
肩に、凄まじい衝撃が叩き込まれた。
「きゃあっ!」
身体が弾き飛ばされる。
地面を転がり、心羽は息を詰まらせた。
「う、ぐ……っ」
肩が、痛い。
ずきん、と奥まで突き刺されるような痛みが走る。
「いた……い……!」
涙が滲む。腕に力が入らない。起き上がれない。
それでも、なんとか顔を上げる。
影魔が見えた。――近い。
もう、眼前まで迫っている。
「……!」
今にも爪が振り下ろされる。咄嗟に、動く方の腕を構える。
「――っ!」
鋭い爪に腕を引き裂かれた。遅れて、熱い痛みが走る。
心羽は腕を見る。赤い線がいくつも走り、その隙間から血が滲んでいた。
「……血……」
手が震える。
「おねえちゃん……!」
子どもが叫んでいる。
「っ……!」
心羽は歯を食いしばる。
痛い。立てない……。
でも、ここで動けなくなったら、この子が――。
その時だった。
ヒュンッ!
ドスッ!
一本の矢が、影魔の腕を撃ち抜いた。
「……!?」
影魔が動きを止める。
矢はその甲殻を抉り、黒い身体から鱗の破片が散った。
心羽は、呆然と矢の飛んできた方向を見る。
森の木々の向こう。そこに、一人の女性が立っていた。
「ちょっと、もう、無茶苦茶よ!」
少し慌てたような声が響く。彼女は弓を構えている。
心羽が戸惑っている間にも、彼女は次の矢をつがえた。
「伏せてて!」
「……!」
心羽は慌てて伏せる。
その瞬間。
ヒュンッ!
二本目の矢が飛ぶ。
今度は影魔の脚へ突き刺さった。
「ギィッ!」
影魔がよろめく。彼女は間髪入れず、さらに弓を引く。
矢尻のすぐ前に、淡い光の輪が浮かび上がった。
「……?」
弦が放たれる。矢は光の輪をくぐり、勢いを増して飛んでいく。
「すごい……。」
彼女は戦いながらもこちらを見やる。
「すごいのはあなたの傷よ、もう……。」
そう言いながらも、彼女は弓を引く。
また一射。さらに一射。
矢が影魔の身体を次々と捉えていく。
重たい音を立て、影魔の装甲を次々に剥がしていく。
最後の一本が、脆くなった影魔の胴体を貫いた。
「――!」
影魔の身体が大きく揺らぎ、そのまま霧散するように崩れていった。
手当て
森に静けさが戻る。
女性は弓を下ろし、こちらへ駆け寄ってきた。
「怪我は?」
そう言うと、彼女は心羽ではなく、まず子どもの方へ向かった。
「痛いところ、見せて」
子どもは怪我をした右足を差し出す。
彼女はしゃがみ込み、傷の具合を確かめた。
「擦り傷くらいね。怖かったでしょう」
「……うん」
彼女は持っていた布を取り出し、小さな傷を丁寧に拭う。その様子を、心羽は地に伏したまま見つめていた。
「これで大丈夫だから。どう? 歩けそう?」
子どもはゆっくりと立ち上がる。
「……うん」
「そう。よかった。」
彼女は子どもの頭をぽんぽんと撫でた。
「次はあなたよ。」
彼女が心羽の方へ振り返る。
「私?」
「そう。ちょっと見せて」
彼女は心羽の腕を取ると、傷口を確かめた。
「……傷が浅くてよかったわ」
布を当て、血を拭っていく。
「もう、危ないところだったのよ?」
「そうなの?」
「そうなの」
少し強い口調だった。けれど、傷を拭う手つきは丁寧だった。心羽はその手元をじっと見つめていた。
「……ありがとう。」
「ほんと、無茶するわよね……。」
そう言って、彼女は包帯代わりの布を巻き終える。
布を巻き終えると、今度は肩へ視線を向けた。
「こっちは?」
「肩?」
「痛むでしょう」
心羽は言われて初めて、肩を動かそうとする。
「うっ……!」
その瞬間、鋭い痛みが走った。思わず顔をしかめる。
「無理に動かさないで」
彼女は肩へ手を伸ばしかけ――触れる寸前で止めた。そして傷の様子を確かめるように、少し離れたところから肩を見る。
「……打ったみたいね。ここは私じゃ判断できないわ。街に戻って、ちゃんと診てもらいましょう」
「うん」
心羽は素直に頷いた。
「歩ける?」
「たぶん……」
「無理そうなら言って。支えるから」
「大丈夫!」
心羽は肩を押さえながら立ち上がった。まだ痛むけれど、なんとか歩くことはできそうだ。
「じゃあ、行きましょう。施療院まで案内するわ」
女性が歩き出す。心羽も男の子の手を取って、その後を追った。
帰路
「ねえ。あなた、なんていうの?」
「私? エイミーよ。」
「エイミー!」
心羽は嬉しそうに、その名前を口にする。
「なによ、どうしてそんなこと聞くの?」
「ちゃんと名前で呼びたかったんだもん。エイミーは、どうして助けてくれたの?」
エイミーは一瞬だけ戸惑い、視線を逸らしてから答えた。
「……だって、見てられなかったんだもの。」
「優しいんだね!」
「そういうつもりはないんだけど……」
「でも、怪我した男の子を助けて、私の怪我まで手当てしてくれたよ?」
「それは、あなたが無茶をしすぎるからでしょう。放っておいたら、もっと酷くなってたわよ」
「うぅ……ごめんなさい。」
「分かればいいの。」
「でも、それってやっぱり優しいことだよね?」
「あの状況なら誰だってそうするわ。」
「そうなのかな……。」
心羽は首を傾げる。誰にでもできることじゃないと思うけど……。
「そういえば、さっきの戦いで使ってた、あの輪っか!」
「ああ、あれ?」
「うん。ふわふわ浮いてたやつ。はじめてみた!」
心羽が両手で輪を描くようにする。
「あれは光環っていうの。私のカルナよ。」
出た、カルナ。前にイジェンドも燃やす能力のことをカルナと言っていた。
「それって、どうやって使うの?」
「光環をくぐった物体を加速させるの。……まあ、それだけの地味な能力よ」
「へぇー、すごい! それって、なんでも速く飛ばせるの?」
「なんでも、ってわけじゃないわよ。まだカルナのコントロールが難しいから」
「じゃあ、練習すればできるようになる?」
「うーん……どうかしら。そう簡単にはいかないと思う」
「そっかぁ」
心羽は少し残念そうにする。でもすぐに顔を上げた。
「でも、すごかったよ!」
「……そう?」
「矢がビュンって飛んで、ズドン、って!」
「擬音ばっかりね」
「だって、本当にそんな感じだったもん!」
エイミーは心羽をちらりと見た。屈託のない笑顔。
今はまだ、断定しきれない。
「……まあ、役には立ってるかな」
「うん!」
心羽は嬉しそうに頷いた。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね」
「私は、燎星心羽。」
「……かがりぼし?」
「心羽、って呼んで!」
「わかった、心羽ね」
エイミーはその名前を繰り返す。
「それじゃあ、もう一つ聞いてもいい?」
「うん!」
「さっきまでと服装が違うのは、どうして?」
「あっ」
心羽は自分の服を見る。いつの間にか変身は解けていた。
「えーっとね……。さっきは、イジェンドの姿になってたんだ」
「イジェンドって?」
その名前に反応したのは、エイミーより先に隣の男の子だった。
「イジェンドなら、ぼくも知ってるよ」
「えっ、本当!?」
心羽が男の子へ振り向く。
「炎の剣で戦ってるのを見たんだ。かっこよかったなぁ」
「格好いいよね!」
心羽の顔がぱっと明るくなる。
「イジェンドはすっごく強くて、それに、優しいことができる人なの!」
「へぇ……」
エイミーが心羽を見る。
「そんなに好きなの?」
「うん! 私も、あんな風になりたいの」
「なるほどね。」
エイミーは小さく頷いた。
「それで、そのイジェンドって何をしてる人なの?」
「いつもは影魔狩りをしてるよ。たぶん今も、森のどこかで影魔をやっつけて回ってるよ」
「影魔狩りかぁ」
エイミーは前を向いた。
「じゃあ、あなたたちはどうして森に入ったの?」
「私は、迷子になってるって聞いて、助けになりたくて探しに来たの」
「そうだったのね」
エイミーは男の子を見る。
「あなたは?」
「ぼくは……お母さんとケンカして」
男の子が俯く。
「それで、飛び出してきちゃった」
「そっか」
エイミーは少し困ったように息を吐く。
「お母さん、きっと心配してるわよ」
「……うん」
「ちゃんと謝るのよ?」
「うん」
男の子が小さく頷いた。
そんな二人のやり取りを見ていた心羽が、今度はエイミーに尋ねる。
「エイミーは、どうしてここにいたの?」
「私は、影魔の調査をしてるの。この辺り、影魔が多いでしょう?」
「へぇー。だから森に入ってたんだ」
「そういうこと」
「じゃあ、手当てに慣れてたのも、そのおかげ?」
「まあ、そうね。影魔を調べてると、怪我をした人に出会うことも多いから」
「なるほど……」
心羽は感心したように頷く。エイミーは、私たちを影魔から助けてくれただけじゃない。怪我の手当てまでしてくれた。それも、普段からやってる当たり前なことのように。
やっぱり、この人も――
「エイミーって、すごいね!」
「……あなた、本当にそればっかりね」
心羽は嬉しそうに笑う。
エイミーはそんな心羽を一度だけ横目で見た。そして、すぐに前へ視線を戻す。三人の歩く先に、森の木々の隙間からユール城下町の建物が見え始めていた。
邸宅
イジェンド邸に帰った心羽は、椅子に座り、暮れてゆく窓の外をぼんやりと眺めていた。
安静にしなさい、という言葉が頭の中を反芻する。
腕には、ぐるぐるに巻かれた包帯が白く残っている。肩にも布が当てられ、動かさないよう固定されていた。どちらも、エイミーに連れられて行った施療院で処置してもらったものだ。そこでは腕の傷を洗ってもらい、薬を塗ってから包帯で保護してもらった。肩も診てもらったけれど、骨には異常がないらしい。しばらくは無理に動かさず、安静にしておくように言われた。
けれど、少し落ち着いていると、肩も腕も、結構痛い。
「……あれ。」
さっきまで、こんなに痛かったっけ。
少しだけ腕を動かしてみる。
「いたっ……」
思わず顔をしかめた。じん、と奥の方から痛みが広がっている。
腕にも目をやると、包帯の下から滲み出した血で布が赤みがかっている。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「……怖かったな」
ぽつりと声が漏れる。
殴られた。すごい衝撃だった。そのまま地面を転がった。あちこちぶつけて、痛くて……動けないのに、すぐ次の爪を振るわれて。自分の左腕が、目の前で抉られて。
「…………」
心羽は自分の腕を抱いた。あの時は、怖いと思う暇なんてなかった。私が男の子を守らなきゃ。それだけを考えていた。
でも――。もし、エイミーが来なかったら。
そこから先を考えた瞬間、身体が震えた。
「……っ」
心羽は慌てて目を閉じる。考えたくない。あの爪が、もう一度振り下ろされるところなんて。
「…………怖かった」
今度ははっきりと口にした。声が少し震えていた。
イジェンドみたいに、魔法を使えば戦える。炎を放てば敵を倒せる。そう思っていた。でも、戦えるようになったって、傷つかないわけじゃなかった。
戦うって、痛い。こんなに痛いなんて思わなかった。心羽は膝の上で、包帯の巻かれた腕をそっと撫でた。
「難しいな……。」
その時、玄関の方から扉の開く音がした。
心羽は顔を上げた。
「イジェンド!」
玄関から入ってきたのは、見慣れた赤い髪の青年だった。イジェンドは心羽を見ると、足を止める。
そして、腕と肩に巻かれた包帯へ視線を落とした。
「お前、怪我したのか」
「うん。今日、影魔と戦って……」
心羽は自分の腕を見る。
「ちょっとだけ。」
「そうか」
少しの沈黙。イジェンドの視線は心羽の包帯から離れない。
「……痛むか」
「うん。結構痛い」
「……大丈夫だったか」
心羽は顔を上げる。
「うん。エイミーが来てくれたから」
「エイミー?」
「うん。弓を使う女の人。影魔の調査員だって言ってた」
「そうか」
イジェンドはそれ以上尋ねなかった。心羽はそんなイジェンドを見つめる。
「エイミーがね、影魔を倒してくれたの。それから、私と男の子を施療院まで連れていってくれたんだよ」
「……そうか」
「だから、大丈夫」
心羽はそう言って笑った。
「なら、よかった」
イジェンドは小さく頷くと、背負っていた荷物を下ろし、外套を脱いで壁にかけ始めた。
心羽はその背中を眺めながら、ふと尋ねる。
「ねえ、イジェンドも怪我するの?」
「ああ。する」
少し意外だった。イジェンドのように強くても、怪我はするんだ。
「じゃあさ、イジェンドは、怪我した時どうする?」
イジェンドはこちらを向いた。
「休んで治す」
ひとこと。
「それだけ?」
「怪我したまま戦えば、また怪我をする。だから治るまで休む」
イジェンドは淡々と答える。
「なるほど……」
心羽は自分の肩を見る。
「じゃあ、私もしばらく休まないとだね」
「そうだな」
それだけ言って、イジェンドは手元に視線を戻した。
心羽はそんなイジェンドを見つめる。
その瞬間だった。
イジェンドの背中に、また淡い光が浮かんだ。
ひとつ。またひとつ。いくつもの光が線で結ばれ、星座を形作った。
「これって……」
次の瞬間。
目の前の景色が、弾けるように変わった。
そこには、昨日も見た幼い女の子がいた。その隣には、赤髪の少年。たぶん、この少年がイジェンドで、隣の女の子は妹なのだろう。幼いイジェンドが、指先に小さな炎を灯している。ゆらゆらと煌めく炎を、女の子はじっと眺めていた。
「綺麗……」
ふいに、女の子が手を伸ばす。その指先が、炎に触れた。
次の瞬間。
炎が、大きく弾けた。
「――あっ」
少年が声を上げる。
炎は一気に広がり、辺り一面を包み込んだ。
「きゃあーーっ!」
女の子の悲鳴が響く。
炎は一瞬で消えた。けれど、女の子の服や髪には、いくつもの炎がまとわりついている。
「熱い……! お兄ちゃん……!」
泣き叫ぶ女の子。
少年は慌てて炎を消そうとしている。
「待って、今……!」
心羽は、声を出せなかった。
そして、景色が弾けるように消えた。
気づけば、いつもの部屋に戻っていた。
「…………」
心羽は呆然としたまま、自分の胸元へ手を当てる。
「……今の……」
少女の泣き声が、まだ耳に残っている。
心羽はゆっくりとイジェンドを見る。何も言えなかった。イジェンドにも、こんな頃があったの……?
「どうした、またぼうっとして」
「……ううん。なんでもない」
心羽は小さく首を振った。
イジェンドは訝しげに心羽を見る。
「……そうか。具合も悪いなら、今日はもう休め。」
「うん。」
心羽は椅子から立ち上がり、自分の部屋へ向かった。
広場
夕方の広場には、仕事を終えた人々が集まり、食事や酒を囲みながら思い思いに談笑していた。
シエルは大きな広葉樹の枝の上に座り込み、その様子を満足げに眺めていた。
「シエル」
足下から声をかけられ、シエルが視線を落とした。
「おや、エイミー」
「あなたに聞きたいことがあるの」
「そうだろうと思ったよ。」
シエルは木から飛び降りる。ふわりと石畳に着地した。
「きょう一日、調べてみてどうだった?」
「え?」
「つけてたんだろう? 彼女のことを。」
「本当に全部お見通しね……。ええ、そうよ。最初は、炎が見えたから行ってみたの」
「うん」
「そしたら、あなたが言ってた通りの格好の子がいて、影魔と戦ってた。見つけた、って思った。」
エイミーは、その時のことを思い出すように目を細める。
「ほう」
「それからずっと、尾行……っていうと言い方悪いけどさ。ほら、どんなやつか気になるじゃない? そしたら、影魔を追い払ったと思ったら街に戻るし、街に戻ったと思ったら、今度は困ってる人を見つけて助けようとするし……」
「へぇ」
「それで、また森に入っていって」
エイミーは呆れたように息を吐く。
「今度は迷子の男の子を助けようとして、影魔と戦って……怪我までして」
「あらら。」
「もう、見ていられなくて、思わず助けに入っちゃったのよ」
少し気まずそうに、エイミーは笑った。
「なるほどね。」
「そんなつもりはなかったのよ?」
シエルは頬杖をつきながら、エイミーを見る。
「それで? 一日見ていて、どう思った?」
「どうって……」
「あの子だと思う?」
エイミーはまた少し考える。
「……分からない。炎を使うのは間違いないし、影魔とも戦えるから……最初は、本当にそうかもしれないって思った」
エイミーは目を伏せる。
「でも……なんか違う気がするのよね」
「それは……直感で?」
「うん。」
「キミらしいねぇ」
シエルは小さく笑った。
「……あ、そうだった、聞きたいことがあったのよ。」
「……今思い出した?」
「うん」
エイミーは少し照れたように笑う。
「イジェンドって名前、知ってるわよね」
「もちろんさ。」
「その人に直接会いたいの。家を教えてくれる?」
シエルは困ったように眉を上げた。
「おっと、それはできないお願いだ」
「どうして? 知ってるんでしょ?」
「彼にだってプライバシーがあるからね。」
「ああ、そっか…」
「でも、会いたいってことなら、叶えてあげられるよ」
「ほんとう?」
「明日の朝、北の時計塔に来て。彼の仕事場に案内しよう」
「分かった。明日の朝ね」
エイミーは頷いた。
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