0 第3話 城下の火

「そんな……!」
心羽は思わず立ち上がった。
ついさっきまで笑顔で溢れていた街が、一瞬で恐怖に染まっていく。
「シエル、どうしよう!?」
シエルは立ち上がり、じっと影魔を見据えている。
その表情から、先ほどまでの柔らかな笑みは消えている。
「ボクから離れないで。」
その声は低く、それでいて落ち着いていた。

一体の影魔が、逃げ遅れた人影を追うように進路を変えた。一直線に、カフェテラスへ駆け込んでくる。
「来る!」
シエルは心羽の手を掴み、素早く後ろへ引く。
同時に、空いた方の手を影魔に向けた。
すると、離れた席のパラソルが、突風に押されたように倒れ込んだ。
ガタン、と音を立てて影魔の進路を塞ぐ。
しかし次の瞬間、影魔は鋭い爪を振り抜いた。
布も骨組みも、容易く切り裂かれる。

「……っ」
シエルは表情を変えず、次々と周囲のパラソルを倒していく。
それでも影魔は止まらない。砕けた木片を踏み砕きながら一直線に迫る。
「そんな……!」
心羽は咄嗟に両手を突き出す。
(イジェンドの炎なら…!)
ぱちり。伸ばした手元から赤い火花が散る。
火の粉は影魔の胸へ降り注ぐが――何も起きない。
影魔はよろめきすらせず、歩みを進める。
「ぜんぜん効かない……!」
心羽の表情が青ざめる。
影魔は腕を振り上げた。
「心羽、こっち!」
シエルは心羽の肩を抱き寄せ、その場から滑るように飛び退いた。
爪が空を切る。

そのままシエルは椅子を蹴り飛ばす。
木製の椅子が影魔の脚へぶつかり、わずかに体勢が崩れた。
その隙に二人は距離を取る。
しかし、このまま下がれば、背後には避難しきれていない人たちがいる。
シエルは足を止めた。心羽をそっと後ろへ下がらせる。
白い翼が大きく広がる。

「はあっ!」
ごう、と風が爆ぜた。
翼の羽ばたきとともにガラスの破片や木片が吹き飛ばされ、影魔へ叩きつけられた。
影魔はなおも歩みを止めない。
瓦礫を押しのけ、一歩、また一歩と迫る。
「……っ!」
シエルは押し返そうとしている。でも、押し切れない。
だったら。

心羽は折れた椅子の脚を掴んだ。
「やぁーっ!」
シエルの脇を飛び出し、その木片を影魔に向かって振り下ろす。
「心羽!?」
鈍い音。だが影魔は微動だにしない。
握る手元からは火花が弾ける。しかし、昨日見た炎には及ばない。
次の瞬間、影魔が腕を払う。
木片はあっけなく弾き飛ばされ、心羽の身体も大きく体勢を崩した。
影魔の爪が、高く振り上がる。
(まずい!)
シエルが踏み込む。けれど、届かない。
振り下ろされる――
そう思った瞬間だった。

ガァンッ!!
重い衝撃音。
振り下ろされるはずだった爪は、心羽の目の前で止まっていた。
一本の大剣が、その一撃を真正面から受け止めている。
「……!」
心羽は息を呑んだ。目の前で揺れる赤い髪。
イジェンドだった。

彼は影魔の懐へ踏み込むと、そのまま体勢を崩すように刀身で押し込み、腹部へ鋭い蹴りを叩き込んだ。
巨体が大きく浮き上がり、石畳を転がるように吹き飛ぶ。
「イジェンド!」
彼は何も答えない。ただ一度だけ周囲へ視線を巡らせ、人々との距離を確かめる。
ゆっくりと剣を構えた。
手元から炎が溢れ、刀身へ絡みつく。赤く、静かに燃え上がる。次の瞬間。

一閃。
炎の軌跡が一直線に走る。
影魔は叫ぶ間もなく炎へ包まれ、そのまま灰となった。
しかしイジェンドは、もう次の影魔へ駆け出していた。

一歩、また一歩。剣が振るわれるたび、赤い炎が街を駆け抜ける。影魔が灰となって崩れ落ちる。
逃げ惑っていた人々は、ただ立ち尽くしてその背中を見つめることしかできない。
誰も近寄れない。ただ一人で、街を襲う群れを押し返していく。
やがて最後の一体が崩れ落ちると、炎だけが静かに消えた。

街は、水を打ったような静寂に包まれる。
煙が風に流れていった。
「……終わった。」
誰かが呟く。
イジェンドは何も言わない。
剣を肩へ担ぎ直すと、そのまま踵を返して歩き出した。
静寂。煙だけが風に流れていく。

「心羽、ちょっとごめん、またあとで!」
シエルはそう言い残すと、慌ててイジェンドの背中を追いかけていった。
心羽はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる二人を見送った。

︎︎⟡

ふと、辺りを見回す。
倒れた露店。砕けた木箱。石畳には黒い灰が散り、風に吹かれてゆっくり舞い上がる。
人々は散らばった荷物を拾い、倒れた屋台を起こし、黙々と後片付けを続けていた。
さっきまで笑っていたパン屋のおじさんも、お客さんたちも、今は誰も笑っていない。
疲れた表情だけが広場に残っていた。
影魔は、あんなに簡単に人を悲しい気持ちにしてしまうんだ。
どうしたらこの人たちに、優しいことができるだろう。

まずは、近くの木箱へ駆け寄った。
「これ、運びます!」
抱えようとする。
「……重いっ。」
少し浮いたところで腕が震えた。
「ありがとう。でも大丈夫。」
青年は苦笑しながら木箱を受け取り、軽々と抱え上げてしまう。
「あ……。」
手伝えなかった。

今度は崩れた塀へ向かう。
散らばったれんがを拾い、一つずつ積み始める。
「ああ、ごめんね。」
店主が優しく声を掛けた。
「それはそっちじゃないんだ。」
「あっ、ごめんなさい!」
「謝らなくていいよ。」
店主は笑う。
「手伝おうとしてくれたんだろ?」
心羽は小さく頭を下げた。

何もできなかった。
みんなの真似をすれば、私にもできると思ったのに。
私にできる優しいことって、何だろう。

その時だった。
すすり泣く声が聞こえた。思わず振り返る。
路地裏の隅で、幼い女の子が小さく膝を抱えて座っていた。
周りに大人はいない。心羽はそっと近づく。

「こんにちは。」
少女は返事をしない。
赤くなった目でこちらを見るだけだった。
その顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなる。
私もこんなふうに、泣いていたことがあった気がする。
あのときの私は、隣にいて、話を聞いてくれる人がいた。
私も、あんなふうになれるかな。

心羽は目線を合わせてしゃがみ込む。
「何かあったの?」
返事はない。
「怖かった?」
少女は小さく唇を噛むだけだった。
どうしよう。お話するだけじゃ足りないかな。
この子は何をしたら笑うんだろう。

ふと、イジェンドの炎が頭をよぎった。
そうだ。
「ねえ、」
心羽は人差し指を立てた。
「ちょっと見てて。」
ぱちり。
指先で、小さな火花が弾ける。
少女の目が少しだけ丸くなる。
心羽は指をゆっくり回した。火花もくるりとついてくる。
もう一度。手を握って、開く。
今度は小さな火花がいくつも浮かび上がった。夜空の星みたいだった。
心羽が手を動かすたび、光の粒が路地裏をゆっくり漂う。

「わぁ……。」
少女が初めて声を漏らした。
「私ね、魔法使いなんだ。」
心羽は少し照れながら笑う。
少女は泣くことも忘れて見つめていた。
「やってみる?」
こくり。少女が頷く。
心羽は少女の人差し指へ、自分の指先をちょこんと重ねた。
ぱちり。小さな火花が灯る。
「ゆっくり動かしてみて。」
少女がおそるおそる指を動かす。
火花も一緒についてくる。
「きれい……。」
少女が笑った。
その笑顔を見た心羽も、つられるように笑っていた。
「もっと自由に動かしていいよ。」
少女は立ち上がり、指先で光を追いかける。
心羽も周りへ火花を散らし、きらきらと華やげに飾る。
小さな星たちが二人の周りを踊る。
少女の顔から悲しみがすっかり消え、路地裏に笑い声が戻ってきた。

「まあ!」
振り返ると、息を切らした女性が立っていた。
心羽は慌てて火花を消す。
「こんなところにいたの!」
少女を抱きしめる。
「探したのよ……!」
その表情から張りつめていたものが、一気にほどけた。
「こんにちは。親御さんですか?」
「ええ。」
女性は少女と心羽を交互に見る。
すると少女が嬉しそうに言った。
「このお姉ちゃん、一緒に遊んでくれたんだよ!」
女性は深く頭を下げた。
「そうだったんですか。ありがとうございました。」
「いえ。元気になってくれてよかった。」
少女は母親に手を引かれながら、大きく振り返る。
「またね、魔法使いのお姉ちゃん!」
心羽も精一杯手を振った。
「うん、またね!」
笑顔でその背中を見送った。

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