0 第4話 二人目のイジェンド
あれからしばらく、心羽は一人で街を歩いていた。
結局、あの後できることはほとんどなかったな。
そんなことを考えながら歩いているうちに、いつの間にか夕方になっていた。
茜色の光が建物の壁を染め、街灯がぽつぽつと灯り始めている。
「おや、小さき森の迷い子さん。」
ふいに、頭上から声が降ってきた。心羽は顔を上げる。
二階建てのレストラン。その屋根の上に腰掛けたシエルが、集まった小鳥たちに餌をやっていた。
「シエル!」
「街を歩いてみて、どうだった?」
相変わらず鳥がさえずっているような声。
「今日は、みんな悲しい顔をしてた。」
「そうだね。」
シエルは餌を撒きながら、屋根の上から街を見渡す。
「そうだ。せっかくなら、キミもここから街を見てみるといいよ。きっと違った景色が見えるはずさ」
「えっ、その屋根の上で?」
「うん。ボクのお気に入りの場所さ。」
シエルは翼を広げ、ふわりと屋根から降りてきた。
そのまま心羽の手を取る。
「それじゃ、行こうか」
再び翼を広げると、二人の身体が屋根の上へ舞い上がった。風が心羽を包み、全身がふわりと押し上げられる。
「わぁ……。」
昼間に飛んだ時とは、少し違う。
赤く染まった街並みが眼下に広がっていた。
シエルは屋根の縁に腰を下ろし、心羽にも隣へ座るよう促した。
「こうして見ると、また違って見えるでしょ?」
「そうかも。」
さっきまで歩いていた道も、屋根の上から見るとずっと小さく見えた。
けれど、景色を眺めているうちに、心羽は足元へ視線を落とした。
すぐ下に地面がないことが、だんだん怖くなってくる。
森でシエルと飛んだ時より、ずっと低いのに。
「座らないのかい?」
「ちょっと、怖いかも…」
「なら、手を繋いでてあげよう。それとも、腰に手を添えて欲しい?」
「それはちょっと…」
心羽はシエルが伸ばした手をしっかりと握り、恐る恐る腰を下ろした。両脚が宙へ投げ出される。
「シエルに連れられて飛ぶときは怖くないのに、不思議だな…」
背丈は心羽とそう変わらないはずのシエルの背中が、なんとなく大きく見えた。
「……そういえば、シエルはあのあとどうしてたの?」
「ん?」
「イジェンドとどこかに行ってたよね」
「ああ、それはね」
シエルは足をぶらぶらさせながら答えた。
「彼が街から離れる前に、しばらく街にいてもらうようお願いしてたんだ。」
「それはどうして?」
「次の襲撃の可能性があったからね。」
シエルはさらりと言った。
「今回は被害も大きかったから、次があるともたない。念のために残ってもらったのさ」
「……そっか。」
心羽は眼下に視線を落とした。
まだ散らかったカフェテラスが見える。
「じゃあ、イジェンドが来てくれなかったら……どうなってたの?」
シエルの返事は少し間があった。
「影魔の数が少なければ、街のみんなで追い払うことはできるよ」
「みんなで?」
「うん。影魔に備えて鍛えてる人たちもいるからね」
けれど、とシエルは続けた。
「今回みたいに数が多いと、被害は抑えられない」
その言葉で、昼前の光景が蘇る。
逃げ惑う人々の、怯えきった表情。
直前まであんなに賑わっていたのに。
「じゃあ、そういう時って……」
「できることは少ないよ。」
シエルは困ったように笑う。
「家や店を捨ててでも、ひたすら隠れてやりすごす。それくらいしかないかな。」
「そんな…。」
「じゃあ、イジェンドの代わりになる人はいないの?」
「こればっかりはね」
シエルは苦笑する。
「イジェンドの強さは、ちょっと別格なのさ。影魔を倒せる人自体、この街にはほとんどいない。ましてや、あれだけの数を一人で相手にできる人なんてね」
心羽の脳裏に、昼間のイジェンドの姿が浮かんだ。
大剣を構え、炎を纏い、たった一人で影魔の群れを押し返していた背中。
「そっか……」
「もしイジェンドが来てなかったら…。」
「うん。もっと大変なことになっていただろうね。」
シエルも街へ視線を向ける。
「だから、ボクが呼んだのさ。」
「えっ、シエルが?」
心羽が振り向く。
「うん」
「でも、どうやって…?」
シエルは振り返り、いつもの笑顔を浮かべる。
「それがボクの仕事だからね。」
「仕事?」
「そう。人と人を、情報で繋ぐ仕事さ」
シエルは周囲を飛び交う小鳥たちへ目を向ける。
「人を探したり、街の噂を集めたり。鳥たちにも協力してもらってね。」
「ああ……だから、鳥さんたちと話してたんだ」
「そういうこと。」
シエルは得意げに胸を張る。
「いわゆる、情報屋ってやつさ。」
「情報屋……」
「今回みたいに、影魔の動きを探ったり、必要な人に知らせたりするのもボクの仕事。イジェンドを呼び戻したのも、その一環だね」
「へぇー、すごい……」
「でしょー?」
シエルは嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、」
心羽は少し身を乗り出す。
「影魔のことも知ってる?」
「もちろん。」
シエルは即答した。
「影魔は、どうして人を襲うの?」
「……。」
シエルは少し目を細めた。
「影魔の目的は、絶望なんだ。」
「絶望……。」
「人を傷つけたり、怖がらせたり、悲しませたりする。そうやって生まれた絶望を、影魔は求めているんだ。」
心羽は黙って聞いていた。
「だから、影魔は人のいるところを襲う。街だって、森だって関係ない。人がいて、絶望が生まれる場所ならね」
「……。」
心羽は唇を結んだ。
逃げ惑う人たち。泣いていた子ども。壊れてしまった街。
あれが、影魔の欲しかったもの……。
「じゃあ……」
心羽は、夕暮れの街を見下ろした。
「そんな影魔をたくさんやっつけられるイジェンドって、すごく“優しいこと”ができる人なんだね」
「ははっ。そうだね」
シエルが笑った。
「本人が聞いたら、『何言ってんだ』って顔しそうだけど」
「ふふっ」
心羽も笑った。
「じゃあ私……二人目のイジェンドになりたいな」
「二人目のイジェンド?」
「うん」
心羽は頷いた。
「イジェンドがそんなにたくさん“優しいこと”ができるなら、私もそんな人になりたい。」
シエルは少しだけ目を丸くした。けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「二人目のイジェンドかぁ」
シエルは楽しそうに笑った。
「いいね。キミがどんな人になるのか、楽しみにしてるよ」
心羽も笑った。
⟡︎︎
茜色だった空は、いつの間にか少しずつ夜の色へ変わり始めていた。
街のあちこちに灯る明かりが、星のように瞬いている。
二人はしばらく何も言わず、その景色を眺めていた。
夜になっていた。
街灯が仄かに照らす街を、星空が静かに見守っている。
中心街から少し離れた空き地で心羽は、一本の木の枝を剣代わりにして振っていた。
「えいっ!」
振り下ろす。
「……こうかな。」
もう一度。
「やっ!」
今度は横へ薙ぐ。
けれど、枝の先は大きくぶれ、勢いに引っ張られて身体までよろめいた。
「わっ……!」
慌てて足を踏み直す。
昼間、イジェンドが振るっていた剣は、もっと簡単そうに見えた。
「もう一回……。」
心羽は枝を握り直した。
今日の背中を思い出し、足を開く。
両手で枝を構える。
「違う。」
背後から、低い声がした。
「ひゃっ!」
突然の声に、心羽は飛び上がった。
振り返ると、少し離れた場所にイジェンドが立っていた。
「イ、イジェンド……?」
「何してる。」
「剣の練習!」
心羽は枝を掲げてみせる。
イジェンドはそれを一瞥すると、ため息をついた。
「それじゃ剣にはならん。」
「えぇっ、でも……。」
「握りが強すぎる。肩にも力が入りすぎだ。」
「そうなの?」
「足も近い。」
心羽は言われた通りに足を開く。
「これくらい?」
「広すぎる。」
「じゃあ……これ?」
「まだ狭い。」
「難しい……。」
「ああ。簡単じゃない。」
イジェンドは心羽の横まで歩いてくると、枝の持ち方を指で示した。
「手首を固めるな。力を入れるのは振る瞬間だけだ。」
「こう?」
「そう。」
心羽は言われた通りに構え直す。
「……振ってみろ。」
「えいっ!」
先ほどよりも、枝がまっすぐ振り抜けた。
「わぁ。」
心羽自身が驚いたように枝を見る。
「できた。」
「さっきよりはましだ。」
「まし……。」
心羽は少しだけ頬を膨らませた。
「じゃあ、もう一回!」
「勝手にしろ。」
心羽は嬉しそうに枝を構え直した。
何度か振るうちに、動きは少しずつ形になっていった。
まだ剣術と呼べるようなものではない。
それでも、教えられたことを一つずつ試し、何度でもやり直そうとしている。
イジェンドはその様子を黙って見ていた。
昼間もそうだった。
誰もが逃げようとする中、ガキのくせにこいつは、自分から影魔に突っ込んでいた。
普通のガキなら、そうはならない。
「……変わったやつだ。」
「え?」
「なんでもない。」
イジェンドは背中の大剣を引き抜いた。
「持ってみろ。」
柄を差し出され、心羽は目を丸くする。
「この剣を?」
心羽はおそるおそる柄を握った。
教わった通りの持ち方で構えてみると、イジェンドが剣から手を離した。
その瞬間、剣先が音を立てて地面に落ちた。
「重っ…!?」
構えるどころか、持ち上げるのさえままならない。
「こんなのを、振り回してたの……?」
イジェンドは大剣を軽々と拾い上げ、背中へ戻した。
「続きは、これを持てるようになってからだ。」
「え?」
「今日はもう遅い。」
心羽は辺りを見回した。
いつの間にか、街の明かりもずいぶん少なくなっている。
「そっか……。明日もやっていい?」
「好きにしろ。」
「うん!」
心羽が笑う。イジェンドはその顔を一瞥して、歩き出した。
「お前、」
数歩歩いたところで、イジェンドは振り返った。
「今夜どこで寝るつもりだ。」
心羽はきょとんとする。
「どこって……?」
「宿は取っていないんだろ。」
「うん。」
心羽は少し考えた。
「シエルに聞けば、どこか見つけてくれるかも。」
「……。」
イジェンドはしばらく黙った。
「なら、うちに来るか。」
「え?」
「部屋なら余っている。」
心羽は目を丸くする。
「私が泊まっていいの?」
「駄目な理由があるのか?」
「いや……そうじゃなくて……」
心羽はイジェンドを見つめた。
「……なんか、意外だなって」
「何がだ」
「イジェンドが、私を家に入れてくれるなんて」
「泊まる場所がないんだろ」
「うん」
「なら、空いてる部屋を使えばいい。」
「……ふふ。そっか。」
心羽は少しだけ笑った。
「じゃあ、お邪魔します」
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