1 千想の魔法【1.赤髪の剣士】 みんなに公開
森
暖かな木漏れ日が、ゆっくりと瞼を照らす。
燎星心羽は小さく身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。
視界に入るのは、どこまでも枝葉を広げた木々。
木漏れ日の隙間から覗く青空。
鳥たちの澄んださえずりが、静かな森へ溶け込んでいた。
「……知らない場所。」
身体を起こして辺りを見回す。
草の匂い。土の感触。頬を撫でる風。
どれも初めてなのに、不思議と少しだけ心が落ち着く。
「私はたしか、転移の魔法を使った……」
夢を叶えるために。
そしてここは、その先にある世界。
「ここ、どこだろう。」
立ち上がり、大きく息を吸う。
不安よりも、胸が少しだけ弾んでいた。
「誰に会えるかな。」
夢を叶える手がかりが、ここにはあるんだ。
その一歩を踏み出した瞬間だった。
ガサッ。草むらが揺れる。
「ん……?」
振り向いた心羽の前に、それはいた。
人の形にも獣の形にも見える黒い影。
赤く光る瞳だけがこちらを見つめている。
「え……?」
低い唸り声。
ゆっくりと一歩、また一歩。黒い影が距離を詰める。
心羽は一歩後ずさる。
「な、なに……?」
返事はない。
次の瞬間、“それ”が地面を蹴った。
「っ!」
鋭い爪が目前まで迫る。
心羽は反射的に身体を翻し、そのまま森の中を駆け出した。
背後から迫る気配が、全身を急き立てる。
枝が腕を掠める。息が苦しい。
「はぁっ……はぁっ……!」
必死に走る。
茂みに足を取られ、勢いよく地面へ転がった。
「いったぁ…」
唸り声がずんと響く。立たなきゃ……
そう思った時には、“それ”はもう目の前まで迫っていた。
振り上げられる黒い爪。
その瞬間。
――ガンッ。鈍い音が森に響く。
真っ黒な大剣が、影を横殴りに薙ぎ払った。
弾かれたように大きく後退する黒い影。
心羽は呆然と見上げる。
そこに立っていたのは、黒い外套を纏った青年だった。
高い位置でひとつに結ばれた長い赤髪が、背中で揺れている。
巨大な剣を肩へ担ぎ直した彼は、振り返ることなく短く言う。
「おい。」
低く、鋭い声。
「下がってろ。」
轟音をあげ、剣が炎を纏う。
熱波が頬を撫で、心羽は思わず後ずさる。
次の瞬間。
青年が一歩踏み出し、燃える刃で一閃。
黒い影は、まるで灼き斬られるかのように炎に呑まれ、跡形もなく消えていった。
青年は黒いグローブを嵌めた手で、剣を肩へ担ぎ直した。
「…助けてくれて、ありがとう。」
震える声で礼を言う心羽に、赤髪の剣士は冷たく言い放つ。
「この森から早く出ろ。また影魔に襲われるぞ」
そのまま歩き出す背中を、心羽はじっと見つめる。
ーーこの人は、私を助けた。
危険なのに。見ず知らずの私を。
それって多分、優しいことができる人。
もしかしたら、この人が私の夢を叶える手がかりかも。
心羽は慌てて後を追う。
「ねえ。」
青年は立ち止まらない。
「ついて行ってもいい?」
その一言で、青年の足が止まる。
ゆっくりと振り返った顔には、露骨な呆れが浮かんでいた。
「……どういうつもりだ。」
「この森は危険だと言っている」
「あなたが、夢の手がかりかもしれないから。」
迷いなく答える。少しの沈黙。
「……夢とかは知らん。ガキの面倒は見ないぞ」
視線を逸らし、小さく息を吐く。
「面倒はかけないよ。」
心羽は即答する。
「自分のことは自分でやるから。勝手について行くだけ。」
「……。」
青年は額に手を当て、青年は短く溜息をついた。
「はぁ……。」
そして諦めたように歩き出した。
「好きにしろ。ただし、邪魔はするなよ。」
青年は森の奥へ向かって歩き続ける。
歩幅が大きい。
心羽は少し早足になりながら隣へ並ぶ。
「ねえ。」
「……。」
「名前は?」
青年は少しだけ間を空けた。
「……イジェンド。」
「イジェンド!」
名前を覚えたことが嬉しかったのか、心羽は少しだけ笑う。
「さっきの黒いのが影魔?」
「ああ。」
「イジェンドはどうしてこの危ない森にいるの?」
「仕事だ。」
「仕事って、影魔を倒すこと?」
「……ああ。」
「危険な仕事なんだね。」
返事はない。
少し沈黙が流れる。でも心羽は気にしない。
「ねえねえ、さっきの炎は? あなたの力?」
「……俺のカルナだ。」
「カルナ!」
初めて聞く言葉に目を輝かせる。
「それってどんな――」
イジェンドが立ち止まり、こちらを振り返る。
「いい加減しつこい。」
振り返った目は少し鋭い。
「面倒は見ないと言っただろ。」
心羽は肩をすくめる。
「……えっと、ごめん。」
イジェンドはそれ以上何も言わず、また歩き出した。
心羽も慌ててその背中を追う。
森の奥で、複数の影魔が姿を現した。一体ではない。
「戦いづらくなるから、近寄るな」
「うん、わかった」
木々の影から次々と現れたそれらは、心羽を襲った個体よりも大きく見える。思わず身構える心羽。
一歩前に踏み出たイジェンドは、剣を担いだまま前方を睨む。
次の瞬間、影魔たちが一斉に飛び掛かる。
イジェンドも地面を蹴ると、その長身からは想像できない速度で影魔の群れへ飛び込んだ。
刀身から、熱を帯びた炎が吹き荒れ、振り下ろされた斬撃が一体を灼き斬る。
返す刃で二体目。さらに炎が剣身を伝い、赤い軌跡を描く。
攻勢のまま三撃。四撃。炎がうねりをあげ、逃げようとした影魔をも呑み込む。その熱気は、遅れて心羽の頬を撫でる。
わずか数十秒、影魔たちは全滅していた。
「すごい……。」
心羽は感嘆しながら呟いた。
圧倒的だった。
その一言しか浮かばなかった。
心羽は、自分の手を見る。
この手には、なんの力もない。なにも守れない。
そしてもう一度、イジェンドの背中を見る。
あの強さがあれば。
怖い思いをする人を助けられる。
泣いている誰かを守れる。
それはきっと、“優しいこと”に繋がるはずだ。
「ねえ!」
心羽は駆け寄った。
イジェンドが振り返る。
「私も強くなりたい。」
その目には、先ほどまでの怯えはもう残っていなかった。
「剣術を、教えてほしい…!」
「……。」
イジェンドは顔を背けた。
「断る。」
一言だった。
「お願い!」
「イジェンドみたいに強い人になりたいの!」
「知るか。俺には関係ない。」
イジェンドは振り返りもせず即答。そのまま歩き出す。
「……。」
心羽は少しだけ俯いた。胸がちくりと痛む。
でも、諦めたくはなかった。
あの背中の先に、自分の夢へ続く道がある気がした。
心羽はもう一度、小走りでその背中を追いかけた。
休息
その後も森を進むたび、影魔は何度も姿を現した。
イジェンドはそのたびに剣を抜き、炎を纏った一撃で斬り払っていく。
心羽は少し離れた場所で、その圧倒的な強さを何度も目の当たりにしてきた。
気付けば、木々の隙間から差し込む陽はすっかり橙色へ変わっていた。
先を歩いていたイジェンドが、不意に足を止める。
「……ここでいいか。」
周囲を一瞥し、背負っていた荷物を地面へ降ろすと、中身を取り出し始めた。
「どうしたの?」
心羽が隣まで歩いてくる。
「朝まで休む。」
返事はそれだけ。
「えっ。ここで?」
心羽はきょろきょろと辺りを見回す。
木しかない。家どころか、人の気配すらない。
「家には帰らないの?」
「往復してたら時間の無駄だ。」
淡々と答えながら、支柱を一本ずつ地面へ打ち込んでいく。
「でも、この森って危ないんでしょ?」
「ああ。」
「寝てる間に襲われたりしないの?」
「あるだろうな。」
あまりにあっさりした返事に、心羽は思わず目を丸くした。
「だったら…」
ーー帰った方がいい。
そう言いかけて口を閉じた。
そういえばきっと、「好きにしろ」と返される気がした。
イジェンドも、一瞬だけその手を止める。
続く言葉を待った。
「ううん。なんでもない。」
心羽は少し考えてから、小さく首を振った。
たとえ危険でも、イジェンドがそうするなら私はついて行く。
「私も、ここで休む。」
心羽は真っ直ぐに告げる。
「……好きにしろ。」
それだけ言うと、イジェンドは作業に戻った。
「私も手伝うよ!」
心羽はしゃがみこみ、反対側の布の端を持ち上げた。
その瞬間。ぐらりと支柱が大きく傾く。
「あっ!」
慌てて手を離すが、もう遅い。
組み上がっていた骨組みが半分ほど崩れてしまった。
「……。」
イジェンドは何も言わず支柱を拾い上げる。
土を払い、もう一度打ち直した始めた。
「手伝わなくていい。邪魔はするな。」
「……ごめん。」
心羽はしゅんと肩を落とし、少し離れた場所で腰を下ろした。
「……じゃあ、眺めてるね!」
そこからは黙って、その様子を眺めていた。
イジェンドは淡々と作業を続ける。
崩れた形跡など最初からなかったかのように、再びテントを組み上げていった。
やがてテントが完成すると、今度は近くに落ちていた小枝を拾い集め、薪を井桁に組み始める。
懐から火打ち石を取り出し、火花を散らし始めた。
カン。カン。
乾いた音が森へ響く。
火花は散るが、まだ火はつかない。
その様子を眺めていた心羽は、小さく首をかしげた。
(……火起こし?)
炎なら、今日だけでも何度も見た。
影魔を焼き払った炎。剣を包み込んでいた赤い炎。
あれだけ自在に火を操れるのに、どうしてわざわざ火打ち石を使うんだろう。
少し迷ってから、心羽はそっと隣へしゃがみ込む。
イジェンドは何も言わない。
「えい。」
両手を薪へ向ける。
ぽっ。
薪の隙間に、小さな炎が灯った。
ぱちり、と音を立てて火が揺れる。
「……。」
イジェンドの手が止まり、視線が合う。
「私ね、実は魔法が使えるの。」
心羽は少し誇らしそうに笑った。
「今のは、イジェンドを真似してみたんだ。」
揺れる炎を見つめながら続ける。
イジェンドは火と心羽を見比べる。
「……そうか。」
それだけだった。
心羽は炎を見つめたまま疑問をぶつける。
「でも、あなたなら、火打ち石なんて使わなくても火をつけられるよね?」
薪が、ぱちりと弾ける。
一瞬だけ、イジェンドの表情が固まった気がした。
「……別に。」
視線を火へ戻す。
「どうでもいいだろ。」
そのまま、それ以上は何も言わなかった。
森には、薪の爆ぜる音だけが静かに響いている。
心羽は火を見つめながら、小さく首をかしげた。
どうしてだろう。あんなに便利なのに。
夜
夜の森は静かだった。空を見上げれば、木々の隙間から星が少しだけ覗いていた。焚き火の灯だけが、暗い森を小さく照らしている。その外側は、何が潜んでいるかも分からない闇だった。
テントの前に腰を下ろしたイジェンドは、無言で携帯食を口へ運ぶ。焚き火の明かりが、黒い外套の襟元から覗く翡翠色の石を淡く照らしていた。
向かいでは、心羽が木の枝を両手で握っている。
「えっと……こう?」
枝をゆっくり振る。違う気がして首をかしげる。
「こうかな……?」
もう一度。今度は少し踏み込んでみる。
「やっ!」
空を切る音だけが響いた。
「イジェンドってもっと速かったよね……。」
昼間に見た剣を思い出しながら、何度も枝を振る。
ぎこちない。それでもやめない。
イジェンドは無言のまま、その様子を横目で見ていた。
朝、森で会ってから。
こいつは何も食っていない。水も飲んでいない。
腹が減らないのか、単に忘れているのか。
どちらでもいい。このままじゃ、そのうち倒れるだろう。
……俺には関係ない。
そう思って視線を外す。
だが、木の枝を振る音は途切れない。
「やぁっ!」
「これで影魔が倒せるのかな……」
ため息交じりの独り言。
イジェンドは小さく息を吐いた。
「おい。」
心羽が顔を上げる。
ぱしっ。
小さな包みが放り投げられた。慌てて受け止める。
「これは…?」
包みを受け止め、心羽は思わずイジェンドを見る。彼はもう焚き火へ視線を戻していた。
「……くれるの?」
「食わなきゃ死ぬぞ。」
そっと包みを開いてみる。
四角い、焼き菓子のようなものが出てきた。
かりっ。
ひと口かじってみる。
何度か噛むと、小麦の香りとほのかな甘みがゆっくり広がった。心羽の表情がぱっと明るくなる。
「おいしい!」
思わず声が弾む。
「これ、なんていうの?」
「……乾パン。」
「へぇー!」
また一口。
「すごくおいしい!」
その反応に、イジェンドは少しだけ眉をひそめる。
(……ただの保存食だろ。)
そう思いながらも何も言わない。
心羽は乾パンを大事そうに両手で持ったまま笑う。
「ありがとう。」
やっぱりイジェンドは優しいことができる人なんだ。この人に付いてきたのは、きっと間違いじゃない。
「今日、イジェンドに会えてよかった。」
焚き火が静かに揺れる。
イジェンドは返事をしない。薪を一本、火の中へくべる。ぱちり、と火の粉が夜空へ舞い上がった。
翌朝
木々の隙間から差し込む柔らかな朝日。葉の先には小さな露が光り、鳥たちのさえずりが静かな森へ響いている。焚き火はすっかり冷え切り、白い灰だけが残っていた。
心羽は、少し寝ぼけたまま隣へ目を向ける。
「……あれ?」
きょろきょろと辺りを見回す。
立ち上がって周囲を見渡しても、人の気配はどこにもなかった。そこにいるはずの、赤髪の青年がいない。
「イジェンド?」
返事もない。
焚き火のそばに、一枚の紙だけが残されているのを見つけた。
心羽は急いで拾い上げた。
『やはり、お前を連れていくわけにはいかない。街に迎えを要請したから、そこで待っていろ。』
その短い文章を、もう一度読む。
「……そうだよね、」
手紙を胸の前で握りしめる。
「やっぱり、迷惑だったよね……。」
昨日あれほど頼もしく見えた背中は、もうここにはない。もう会うこともないかもしれない。
しばらく俯いたまま立ち尽くす。
それでも、昨日出会ったことまで消えるわけじゃない。
強くなれば、優しいことができる。それはきっと間違っていない。
心羽は近くに落ちていた木の枝を拾いあげた。あの背中を思い出しながら、ぎこちなく枝を構える。
朝の澄んだ空気を切る、小さな音だけが森へ響いた。
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